戦争で焼失した首里城、復元に向けた沖縄と政府の動きは… 反発する役人を説き伏せた「ウルトラC」提案とは 首里城再建の課題(5)


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首里城が焼失した後も、守礼門で記念撮影する人は後を絶えない=4日、那覇市

 1925年に国宝に指定された首里城正殿は沖縄戦の「鉄の暴風」により焼失した。その首里城の復元に向けて沖縄県が動き出したのは、沖縄の日本復帰を2年後に控えた1970年だった。琉球政府文化財保護委員会が首里城正殿などの復元を日本政府に要請した。

 その後、復元の原動力となる首里城復元期成会が73年に結成された。初代会長に屋良朝苗知事が就任し、行政主導の形で本格的な政府への要請行動が始まったが、国営沖縄記念公園首里地区として正殿が92年に整備復元されるまでの道のりは平たんではなかった。

旧大蔵省の抵抗

 復元に立ちはだかったのは焼失した首里城の位置付けと旧大蔵省の存在だった。大蔵省は沖縄戦で首里城が全壊したことで「もはや文化財ではない」として国費による復元に抵抗した。

 総務庁長官として琉球政府から要請を受けた山中貞則氏は当時、大蔵省に対し「沖縄戦に投じられた日本軍の費用は大蔵省の査定で生まれた。結果、首里城が壊滅したのであるから大蔵省に責任があることは否定できない」と強く迫った。「総務庁長官たる山中貞則の要求」として予算を要求し、歓会門復元の高率補助を実現させた。

 一方、正殿の復元に関しては予算獲得が難渋した。復元に向けた動きが本格化したのは、琉球大が現在の西原町に移転する計画が浮上した67年以降だった。81年には、行政主導だった期成会が民間主導の組織として再始動した。

 会長には県商工会議所連合会長の国場幸太郎氏が就任。以来、20数回にわたる政府要請や機運醸成のための広報啓発活動に奔走した。さらに自民党衆院議員で、78年の知事選で当選した西銘順治氏も全額国費での首里城復元を政府に繰り返し要請するなど、保革を超えた動きが首里城復元を後押ししたとみられる。

二つの国立公園

 官民挙げての要請を受けた自民党は沖縄振興委員会の中に「沖縄戦災文化財等復元に関する小委員会」を設置。82年には第2次沖縄振興計画に「首里城一帯の歴史的風土を生かしつつ、公園としてふさわしい区域について整備を検討する」と盛り込んだ。しかし、その方針に対して大蔵省は「一つの県に二つの国立公園を整備することはできない」と反発した。そこで元沖縄開発長長官で小委員会の委員長だった植木光教氏は、海洋博覧会記念公園と首里城公園を一つの国営公園として整備する「植木構想」を提唱した。

 「ウルトラC」とされた提案により、84年、首里城を優れた文化的資産の保存、活用を図るために設置する「ロ号国営公園」として国費で整備する方針が発表され、86年には閣議決定された。

 山中氏は首里城復元について期成会が発刊した記念誌「甦(よみがえ)った首里城」でこう述懐している。「この世紀の事業はある日突然できたものでは決してない。30年余にわたる首里城復元期成会が繰り返し根気よく本土政府の厚い壁に立ち向かったたまものである」。

 首里城復元の精神的主柱でもあった期成会は2009年に解散した。首里城再建に向けては官民挙げて幅広い多くの関係者が結集できるかどうかが成否の鍵を握る。
 (吉田健一)