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首里城焼失 政治的対立超え、再建を <佐藤優のウチナー評論>


この記事を書いた人 アバター画像 琉球新報社

 10月31日未明に発生した火災で首里城が焼失した。首里城は、県民のみならず日本と全世界に住む沖縄人(ウチナーンチュ)にとって、沖縄の象徴であり、沖縄人を統合する象徴でもある。

 筆者の父は東京出身だが、母は久米島出身の沖縄人だ。筆者は日本人と沖縄人の複合アイデンティティーを持っているが、どちらか一つを選べと言われたら沖縄人を選ぶ。首里城焼失による筆者の悲しみが、周囲の日本人にはなかなか皮膚感覚で伝わらない。

 首里城が沖縄と沖縄人を統合する象徴的意味を持っていることを東京の政治エリート(国会議員、官僚)に理解させようと努めている。

 その際に本紙1日付社説のコピーを渡して説明している。なぜなら、この社説が、首里城に対する沖縄人の意識を的確に表現しているからだ。

 〈琉球王国の歴史そのものである首里城は、国王の居城として政治・文化の中心だった。正殿には「舟楫(しゅうしゅう)をもって万国の津梁(しんりょう)となし、異産至宝は十方刹(じっぽうさつ)に充満せり」と刻まれた「万国津梁の鐘」を掲げ、独立した国としてアジア各地へ繰り出す外交・貿易の拠点であった。/近代以降は王国の崩壊とともに苦難の歴史をたどった。1879年に松田道之琉球処分官が日本陸軍熊本鎮台分遣隊の一個中隊を伴い首里城に入城し、国王を追放して日本軍の駐屯地として占拠した。/1925年に国宝となったものの、沖縄戦で第32軍の司令部壕が地下に設けられたことで米軍の砲撃にさらされ、国宝は灰燼(かいじん)に帰した〉。

 首里城は、軍事目的というよりも政治と文化の中心だった。特に1879年の琉球処分で琉球藩が廃されて沖縄県が設置されるまでは、琉球王国の中枢として機能した。この社説にも記されているが、琉球王朝最後の尚泰王は、中央政府によって強制的に首里城から追われ、東京に連行された。沖縄人にとっては屈辱的な出来事だ。

 太平洋戦争末期の沖縄戦では、首里城の地下に日本軍の司令部壕が作られた。そのため首里城周辺は激戦地になった。筆者の母は14歳で日本軍の軍属となり、沖縄戦に従軍し、九死に一生を得た。首里城の下には、多くの日本軍将兵の遺骨が埋まっている。沖縄戦を記憶する場としても首里城は特別の意味を持っている。

 戦後は、ここに沖縄初の大学である琉球大学が設置された。沖縄人は自らの歴史や文化を本格的に研究することが可能になった。

 首里城は焼失してしまったが、沖縄だけでなく日本、さらに全世界にいる沖縄人の心の中で首里城は存在している。われわれの心の中にある首里城を再び形にすることに全世界の沖縄人の力を合わせて取り組むことが重要だ。

 その際、さまざまな政治問題での分断を超克する必要がある。首里城再建という文化課題に、政治的対立を包み込んでいく方向で沖縄人は団結すべきだ。

(作家・元外務省主任分析官)