<未来に伝える沖縄戦>米軍機銃掃射、目の当たりに 玉城米夫さん


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 本部町伊野波に生まれ育った玉城米夫さん(88)=町東=は、本部国民学校高等科1年の時に日本軍の陣地構築に駆り出され、艦砲射撃を間近に体験しました。玉城さんの話を本部高校2年の山城結夢さん、饒波七星さん=いずれも(17)=が聞きました。

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戦争体験を語る玉城米夫さん=10月19日、本部町東

 《玉城さんが本部尋常高等小学校4年生だった1941年、戦時体制に応じた教育を目的に国民学校制が施行されました。子どもたちは軍事色の強い教育を受けるようになります》

 学校では、敵に見立てたわら人形を竹槍で突いたり、弾薬に見立てた俵を運搬したりする訓練がありました。ご真影(天皇・皇后の写真や肖像画)を納めた奉安殿があり、最敬礼しなければなりませんでした。

 44年になると地上戦の準備が進み、高等科1年の私たちも清末隊(宇土部隊の第2歩兵隊歩兵砲中隊)の塹壕掘りに真部山に駆り出されました。岩にタガネで穴を開けて粉火薬を詰め爆破するんです。今思うと、よくも子どもに爆薬を扱わせたものです。本当に勉強どころではない日々でした。

 《10月10日、米軍が南西諸島全域で大規模空襲を展開。本部町渡久地地区は7~8割が焼失しました》

 その頃父は約1カ月間、伊江島飛行場の建設に徴用されていました。母はちょうど父に面会するために伊江島を訪ねていて、伊野波の自宅に残っていたのは3歳上の姉を筆頭に子どもばかり6人でした。

 朝7時ごろ、朝食を食べようとしていたら渡久地港の辺りでドロン、ドロンと砲弾の音がしました。「演習でもしているのかな」と外に出ようとしたら姉に「早く食べないと学校に遅れるよ」と叱られ、食事に戻ろうとするとボーン、ボーンと音がしました。これは谷茶から日本軍が数発打った高射砲で、敵機には当たらなかったらしい、と後から知りました。

 学校では空襲が来たら隠れるように歌で「空襲警報聞こえてきたら 今は僕たち小さいから 先生の言うことよく聞いて 慌てないで騒がないで落ち着いて 入っていましょう防空壕」と覚えさせられていました。実際には空襲警報なんて鳴らず合図もないままに家々が攻撃され、煙がもうもうと上がりました。谷茶や渡久地の一帯は全部焼かれてしまいました。

 伊江島からも渡久地の煙が見えて、両親は「子どもたちはどうなっただろう」と気が気ではなかったそうです。もちろん伊江島も攻撃されていたんですが。

 私たちは「戦争が来た。逃げなければ」と米を袋に入れ、ムシロを巻いて、約6キロ離れた伊豆味の親戚の家まで歩いて逃げました。

※続きは11月13日付紙面をご覧ください。