米統治下の1958年、一獲千金を夢見てオーストラリア北部の木曜島で真珠ダイバーとして活躍したウチナーンチュたちがいた。本部町健堅の新川宣秀さん(86)もその1人だ。一緒に本部から海を渡ったダイバー仲間を潜水病で亡くすなど、海での仕事は死と隣り合わせの過酷な現場だった。それでも新川さんは半世紀以上前の薄れつつある記憶の中、「元気なうちに行きたい」と再訪を夢見ている。
木曜島などオーストラリア北部は良質な真珠貝が採取できると知られており、19世紀後半から1960年代まで多くの日本人ダイバーが働いた。当初は優れた潜水技術のあった和歌山県のダイバーが多かったが、太平洋戦争後は帰国させられた。代わりに白羽の矢が立ったのが米統治下のウチナーンチュだった。
海に囲まれ、漁師の多い沖縄。ウチナーンチュにとっても真珠採取の仕事は“御殿”が建つとうわさになるほど魅力的だった。新川さんはスクラップブームで海中の戦闘機などの回収に携わっていた頃、真珠貝採取の仕事の募集があり応募した。58年3月、父の宣達さんや同郷の人々ら約150人と共に海を渡った。
新川さんは真珠採取会社「Whyalla shell」と契約、6人ずつ3隻の船で真珠貝採取に向かった。新川さんは宇宙服のような潜水マスクをかぶってダイバーとして海に潜り、宣達さんは機関士として作業を見守っていた。
「真珠貝は砂地にまとまってあったよ」。多い時は両手で抱えるほどのかごが一度でいっぱいになった。そんな時は大漁旗に見立てて貝を船のマストに干し、港に帰った。
新川さんは「貝の中身は食べるとおいしかった。真珠も養殖と違ってツヤがあって素晴らしかったよ」と自慢げに振り返った。だが、木曜島周辺での真珠採取は既にピークを過ぎていた。新川さんが「もう取り尽くされていた」と言うように採取量は徐々に減少。3年ほどの契約だったが、1年を待たず沖縄に帰ることになった。
(仲村良太)