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三線は言葉超え世界に広がる 照喜名朝一さん(琉球古典音楽人間国宝) 米寿迎えいまの夢は… 〈ゆくい語り・沖縄へのメッセージ〉24


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髙村薫さん(作家、世界平和アピール七人委員会委員)

 数え88歳の米寿を迎えた琉球古典音楽の人間国宝、照喜名朝一さん(87)に今年4月、海外の門下生の尽力によって最高の祝いの舞台が用意された。場所は米ニューヨーク市のカーネギーホール。長年夢見た音楽の殿堂に、沖縄の歌三線を響かせた。

 9月14日には、人間国宝の共演が恒例となった首里城公園「中秋の宴」で、正殿を背景に至芸を披露した。それから間もない10月31日未明、首里城は大火に包まれた。

 「チムトクルンネーラン(心の置き場がない)」という虚脱感にしばらくは襲われた。火災から1カ月がたち、「私の脳裏にある首里城が消えることはない。大事なのは前を向くこと」と奮い立つ。

 「カジマヤーは首里城でお祝いしたい」。再建を担う次の世代の人たちが、もう一度夢の舞台に立たせてくれる日を信じている。

三線は言葉を超えて世界に広がる

 

 ―今年4月に、米ニューヨークのカーネギーホールで米寿の記念公演が催された。音楽の殿堂の舞台はどうだったか。

 「85歳の時に、ハワイの弟子たちが『大(おお)先生数え88歳のトーカチは私たちがカーネギーホールを押さえてお祝いするから、絶対に米国まで来てください』と言ってくれた。3年がかりでホール側と交渉し、私の誕生日に合わせて演奏会を準備してくれた。あれだけの有名な舞台に琉球音楽の音色が放たれて、ここまでやってきてよかったと素直に感動した」

 「ハワイ、ロスを中心に沖縄、東京、大阪の門下生が出演し、それぞれの家族もこぞってニューヨークまで同行した。カーネギーの舞台に家族が立つことは米国の皆さんにとっても喜びで、すごく感謝された。沖縄の言葉が分からなくて演奏を聞いてくれるだろうかという心配もあったが、やっぱり音楽は世界共通なんですね。言葉は違っても、琉球古典音楽とはこういう音楽かと伝わって、アメリカの観客の皆さんが喜んでくれた。海外との絆と情熱が扉を開けた」

年をとることで出てくる味わいも

 

カーネギーホール公演「翔べ! うた三線 イン NY」の幕開けで「長者の大主」のように登場する照喜名朝一さん(前列中央)=2019年4月18日、米ニューヨーク市のカーネギーホール(国吉トキオさん撮影)

 ―カーネギー公演の主催は琉球古典安冨祖流音楽研究朝一会USA支部。海外での普及はどのような経緯があるのか。

 「1960年に初めてハワイを訪れた。まだ1世の方も多くいた時代で、歓迎会にたくさんの県人が集まってくれた。『クヮムチャー(子持)節』を歌った時には皆が涙を流して聞き入った。きっと歌詞に共感する所があったのだろう。その光景に、本気で三線をやらなくてはいけないと身が引き締まる思いになった。この時の経験のおかげで今の私がある。それからハワイを中心に指導に通うようになり、今ではハワイ、ロスに約200人の門下生がいる。ハワイではひ孫弟子まで広がって、県系5世の世代になっている。日本語は話せないけど、安波節を歌わせたらしっかりとウチナーグチで歌う」

 ―実演家として年齢を重ねることと、どのように向き合っているか。

 「年をとると声もかれるし、若い頃の勢いとはどうしても違ってくる。それでも古典にしても民謡にしても、年をとることで出てくる味わいというのがある。経験を重ねることで、喉をコントロールするこつがつかめる。若い人に負けてたまるかという気持ちで、節回しに味付けしたりしてね。こうしたことは習ってすぐにできるものではない。歌は心で歌う、心は歌に出る。若いうちに自分はできていると思ってしまうと、古典の奥深い魅力にはたどりつかない。生涯学習ですよ」

 ―琉球文化の象徴でもある首里城が火災で焼失してしまった。

 「チムトクルンネーラン。心の置き場所がないと言えばいいのか、本当に自分の心が砕かれてしまったようでつらかった。王府時代に首里城を拠点に諸外国との交易を盛んに行い、沖縄の三線が世界を魅了した。音楽は言葉を超えて世界に通じるからね。だから首里城は私たちの誇りとしてあった。焼け跡は見てないし、これからも見るつもりはない。私の頭の中には、首里城が焼失する前の姿のままで残っている。それでいい。焼け跡を見てしまうと、そのイメージまで失ってしまう」

 ―首里城との関わりは。

 「照喜名門中の祖先に、国王付の楽士だった照喜名聞覚名仙(1682~1753年)がいた。組踊創始者で踊奉行の玉城朝薫とほぼ同じ時代の人物だ。王が首里城を追われると、照喜名門中も知念村(現南城市)の板馬(いちゃんま)という集落に屋取で移った。私が国民学校4年生のカミウシーミー(清明祭)の時期に、父が『王様の居城だから見ておかないといけない』と言って、知念から一緒に歩いて、沖縄戦で破壊される前の首里城を見た。あの頃の首里城は上等ではなかったので、子ども心に『ずいぶん古びているな』と思ったものだ」

 「30年前の首里城正殿復元工事が始まる際に、宮城能造先生(1906~1989年、舞踊家)が、戦前まで首里城の工事の時には、木材を曳(ひ)きながら歌う『木遣(きやり)』の歌があったことを教えてくれた。録音機を持っていって能造先生に歌ってもらい、木遣歌を採録した。山原から那覇の港に木材を載せた船が着き、泊から安里まで運ぶ時に歌うのが『那覇木遣』で、安里から首里に向かう時には『首里木遣』になる。起工記念の木曳行列が行われ、参加者皆で歌えるように大きな看板の表に『那覇木遣』、裏に『首里木遣』の歌詞を書いて行列を先導した。その時に木遣歌は書き残している。次の工事の時に復活させるのは息子(三線演奏家の朝國さん)たちの役割だ」

大事なのは、県民が自発的に動くこと

海外の門下生らからカーネギー公演の成功と誕生日を祝福される照喜名朝一さん(中央)=2019年4月19日、米ニューヨーク市のレストラン

 ―再建に向けて各方面で動き出している。

 「大事なのは県民が一丸となって自発的に動くことだ。最初から政府任せになったり、援助がなければできないと頼ってしまったりではいけない。県民自ら動くからこそ県外の人が助けてくれる。私の脳裏には焼失前の首里城の姿が今もはっきりと残っているが、同じような建て方ではまた火災で燃えてしまう。最先端の技術を結集して、二度と焼失しない構造の新しい首里城を建てることがあってもいい。失ったものを残念がっているよりは、これから先をどうするのか前に目を向けることが大切だ。私の性格がそうなんだ。もう一度首里城の前で歌いたい。カジマヤー(数え97歳のお祝い)は首里城でお祝いしたいね」

(聞き手 経済部長・与那嶺松一郎)

てるきな・ちょういち

 1932年4月15日、知念村(現南城市)生まれ。87歳。安冨祖流の故・宮里春行氏に師事。86年国指定重要無形文化財「組踊」保持者、99年県指定無形文化財「沖縄伝統音楽安冨祖流」保持者。2000年、国指定重要無形文化財「琉球古典音楽」の人間国宝に認定される。今年4月18日、数え88歳を迎えた照喜名さんの米寿を祝い、門下の琉球古典安冨祖流音楽研究朝一会USA支部(村田グラント定彌支部長)が米ニューヨーク市のカーネギーホールで公演「翔(と)べ! うた三線 イン NY」を企画。沖縄の芸能団体単独で同ホールで公演を開催するのは初めてとなった。

 取材を終えて  

(経済部長・与那嶺松一郎)

 首里城復元の木遣行列のほかにも那覇大綱挽、那覇ハーリーなど、戦争などで途絶えてしまった行事の復活にいくつも関わってきた人だ。自他共に認める「お祭り男」。歌三線の鼓舞によって、沖縄は逆境の中から何度も奮い立ってきた。

 1992年の正殿復元は照喜名さんの還暦祝いと重なり、人間国宝の認定を受けた2000年に首里城も世界遺産に登録された。「新春の宴」のステージ出演のため正月は首里城で迎え、満月の下の幻想的な「中秋の宴」の舞台で聴く者をいにしえの時代へと誘ってきた。

 琉球古典音楽を体現する生きた「国宝」は、首里城と分かちがたい縁で結ばれてきた。喪失感は大きいはずだが「建物は無くなっても、伝統芸能は無くならない」と気持ちを前に向ける。苦しい時ほど燃え上がるウチナーンチュの情熱と明るさが、健康長寿の源だと感じた。

(琉球新報 2019年12月2日掲載)