米軍機の調整音が鳴り響き、オスプレイやヘリコプターが上空を飛び交う米軍普天間飛行場がある宜野湾市宜野湾。この地にはかつて道行く人を日差しから優しく守った松並木の街道「宜野湾並松」やウマハラシー(琉球競馬)でにぎわった「宜野湾馬場」があった。同じ井戸の水を分け合う人々が肩を寄せ合い暮らしていた。「緑の中での平和な暮らしが一切合切なくなった」。宜野湾で生まれ育った玉那覇昇さん(83)の故郷は1945年の沖縄戦で戦場と化し、米軍に土地を奪われた。戦後75年。ずっと奪われたままでいる。
玉那覇渡賀さん、カマさんの次男として1936年5月、宜野湾で生まれた昇さん。実家は集落の東側。今では基地フェンスのすぐ内側だ。かつて屋敷内には畑や豚小屋もあり、周りはユウナやアカギなどたくさんの木に囲まれていた。子どもだった昇さんは木に登ったり、鬼ごっこをしたりして遊んだ。
戦前は宜野湾国民学校に通っていた。馬場のすぐ近くに学校はあり、集落内を歩いて登校した。「じのーん(宜野湾)は碁盤の目のように道が通っていた」と振り返る。校舎前に着くと一礼して入った。御真影のある奉安殿に向かって頭を下げていたと知ったのは後のことだった。
既に戦時下だった当時、学用品などは簡単に手に入らない時代だったが、大工の棟梁だった渡賀さんは昇さんのために木を切って勉強机を作ってくれた。「うれしかった」。記憶は今も鮮明に残っている。
44年、戦争に備えて校舎には日本軍が駐留した。昇さんたち児童は集落内の水源ウフガー(産泉・ウブガー)近くの仮小屋で勉強した。
翌年2月、日本軍は「宜野湾並松」の伐採を命じた。米軍の上陸を見越し、倒した木で米軍の進路を妨害する狙いがあった。3月中旬になると「米軍が上陸してくる」と言われた。多くの宜野湾住民が自然壕に隠れる中、昇さん一家も周辺住民と共に「松川」というガマに隠れた。昇さんは一歩も外に出ず、何日入っていたのかも分からない。「ドーン」。爆音が鳴り響いた。故郷は戦場となった。
「死ぬならみんな一緒」母の言葉で命拾い
沖縄戦が始まり、玉那覇さんらは宜野湾集落内にある暗いガマの中で何日も過ごしていた。一歩外に出れば戦場、ガマの中にもいつ兵隊が入ってくるか分からない。1945年4月のある日、極限状態で父の弟が「昇を連れて逃げる」と言い出した。「ならん。亡くなるならみんな一緒」。母のカマさんの言葉で昇さんは命拾いをした。
宜野湾の集落内にはいくつもガマがあった。そのため、一部の住民は今帰仁村などへ避難を始めたが、多くは集落に残った。昇さん一家も同様にガマ「松川」に逃げ込み、10家族50人ほどと同居していた。
食事は父の渡賀さんがガマと家を往復して準備した。何日も生活する中、内部の衛生状況は悪化し、昇さんは「体のあちこちがノミとかシラミだらけになった」。この苦境から脱しようと考えた叔父はガマを出ようと発言した。叔父は1人でガマを出たまま帰らぬ人となった。昇さんは母の言葉で助かった。
4月上旬。「出て来なさい。誰も殺さない」。ガマから出てくるよう呼び掛ける声が響いた。日系人の米兵だった。昇さんらはみな動けず暗闇の中で顔を隠してうずくまっていた。入ってきた米兵に1人ずつ顔を上げるよう求められた。昇さんも顔を上げ、米兵はそのままガマの奥に進んだ。「バーン」。銃声が響いた。
後日、同じ玉那覇門中のおじいが銃殺されたことを知った。逃げようとした住民も撃たれ、同じガマの中にいた少なくとも4人が亡くなったという。
戦後、野嵩収容所に移された住民の多くが元の宜野湾集落近くでの居住を許されたのは、1947年だった。元々の集落は米軍普天間飛行場の用地となっていた。
実家があった場所に立つ昇さん。「屋敷の跡だけが残っていた。全部焼けて無くなっていた」。周辺には航空機の残骸が放置され、住むことは許されなかった。
(仲村良太)
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沖縄戦に巻き込まれた人は誰もが何かを奪われた。故郷、大切な家族、教育の機会…。戦後75年。戦渦を生き延びた人々に残る傷痕に焦点を当てる。