【識者評論】戦後の土地接収「財産権を無視した強奪」 吉浜忍氏(沖縄国際大元教授)


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 米軍による土地接収は財産権を無視した強奪だった。米軍基地の整備はかつての集落や耕地を分断し、戦後の復興に大きな影響を与え、住民は戦後75年となった現在も大きな被害を受け続けている。

 土地接収の原形は既に米軍の占領時にあった。南洋諸島を攻略した米軍は次の進攻先として沖縄攻略の方針を決めた。日本を降伏させるため、日本本土進攻を視野に中継・出撃の拠点として沖縄に上陸して占領を図るアイスバーグ作戦を仕掛けた。

 沖縄を基地化するという現れがニミッツ布告だ。上陸後間もなく出された基地展開計画で、将来の作戦を支援する前進航空基地として位置付け、行政権を停止し、米軍政府の管理下に置くことを宣言した。

 このような軍事作戦と同時に展開したのが住民対策で、それが収容所だった。一部を中部に、大部分を北部に置いたのは何だったのか。住民を保護する意味もあっただろうが、主要な目的は戦闘や基地整備の邪魔にならないようにということがあったとみられる。戦後すぐに中南部一帯を軍用地化する計画があり、本土進攻がなくなっても、その後のアジアへの展開など想定しながら、沖縄から引き揚げるのではなく、最終的には永久的に確保する意図があった。

 米軍政府は1952年の講和条約締結の前後に土地収用に関する布令を次々と出すが、地代が「コカ・コーラ1本より安い」と言われるなど法的根拠は理不尽なものだった。53年に出された土地収用令による接収に抵抗する伊佐浜や伊江島などの抵抗が島ぐるみ土地闘争へと広がった。

 復帰の要求として基地の全面返還を求めたが、日米安保条約で日本政府が基地提供する形となり返還問題は複雑化した。ただ那覇市おもろまちや北谷町の基地返還後の振興で分かるように基地は発展の阻害要因となっているのは明らかだ。

 それぞれの御嶽や行事など集落で築き上げた文化も、基地によって失われることにもなる。現在、日本政府による軍用地の収用法(駐留軍用地特別措置法)があるが、本質は米軍の土地収用令と何も変わらないことは忘れてはならない。