住民の財産である宅地や畑を奪い建設された米軍普天間飛行場。米軍は「すぐに出て行く」と早期返還をほのめかしていたといい、住民も元の集落に戻れると信じていた。しかし、土地は返されぬまま時が過ぎていく。
1947年、宜野湾集落の住民はかつての集落と軍道(現・国道330号)の間にある現集落への居住が許可された。基地内の黙認耕作地に通えたことなどが理由だった。住民はこの時も返還を見込んでいた。
実家を奪われた玉那覇昇さん(83)の一家もそうだった。新たな集落で土地を割り当てられた。住民同士で協力し、放置された野戦用のテントの切れ端などを使って小屋を建てた。集落に戻るまでの仮の家のつもりだった。
60年、普天間飛行場の管理権が海兵隊に移って以降、基地機能は強化され、住民排除が進んでいく。基地との間にフェンスが張られたのは63年。字宜野湾の69%が軍用地となった。その後も集落近くにあるゲートから耕作地に入ることはできたが、復帰を前にした70年、閉鎖された。
「勝手にきて、勝手に造って」と怒りを隠さない昇さん。住んでいた屋敷があった土地は倉庫などの施設が建てられた。その様子はフェンスの外からも見える。
簡単に立ち入れない故郷だが、年に1度、水源ウフガー(産泉・ウブガー)を清掃する旧暦6月の伝統行事カーサレーの時に立ち入りが許可される。その際、昇さんら玉那覇門中は管理する「インガー」を清掃し、生活に欠かせない水をきれいに保っている。
現在は基地のフェンスから約200メートルほどの場所に自宅を構えている。96年4月、59歳の時に飛び込んできた日米両政府の全面返還合意のニュースに喜んだが、それは今も実現していない。2004年の沖縄国際大米軍ヘリ墜落事故で不安が膨らんだ。
普天間飛行場の移設に伴う名護市辺野古での新基地建設は工期が長引き、完成は2030年代とも言われる。仮に完成しても普天間飛行場が直ちに返される訳ではない。このままでは戦後100年の時を迎えても土地は返っていないかもしれない。昇さんは「普天間の危険性を放置している政治の怠慢だ。国民を危険にさらしている」と憤る。
地元で暮らし、教員を務めながら平和教育に力を入れてきた。宜野湾郷友会の三代目会長も務めた昇さんは一日も早い返還を求める。「コンクリートだらけの基地ではなく、緑に囲まれた屋敷で静かに暮らしたい」
(仲村良太)
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沖縄戦に巻き込まれた人は誰もが何かを奪われた。故郷、大切な家族、教育の機会…。戦後75年。戦渦を生き延びた人々に残る傷痕に焦点を当てる。