米軍基地で飲み込まれた集落 古里離れるも伝統行事で元住民心一つに <奪われた日・再生への願い―戦後75年県民の足跡④花城可保さん、喜友名朝徳さん㊦>


この記事を書いた人 Avatar photo 琉球新報社
嘉手納基地内にある集落が見渡せる場所に建てられた下勢頭郷友会の合祀所から元の集落の場所を見下ろす喜友名朝徳さん(左)と花城可保さん=2019年12月18日、北谷町

 北谷町上勢頭に建つ「下勢頭郷友会館」。1980年代に建てられた会館内には、戦前に使われていたかめやかごなどが展示され、戦前の下勢頭の姿を描いた絵が壁に掛かる。この会館と年中行事が、下勢頭の人々が団結し、絆を確かめ合う源となってきた。

 沖縄戦後、古里が米軍嘉手納基地に飲み込まれた下勢頭の人々の多くは、沖縄市や北谷町内の別の地域に移り住んだ。集落の行事なども途絶えたが、1950年に集落出身者有志で「ニングヮチャー(二月祭)」を復活させた。その後、かやぶきの集会所が建設され「字下勢頭会」として郷友会の歩みが始まった。77年に「下勢頭郷友会」と名称が変更された後も、行事を毎年欠かさずに続けてきた。

 現在、郷友会に所属する世帯は345世帯で、戦前と比べると2倍以上となり、会員も約1200人に増えた。だが、戦後に分家などが進み、古里から遠く離れて住んでいる人も多く、郷友会に入らない若い人も増えてきた。高齢化も進んでおり、時がたつにつれて共同体意識は次第に薄れているという。

 「戦前よりも人の数は増え、郷友会館も建てて、行事もたくさんやってきた。しかし、若い人に郷友会の意識がないと会員がどんどん減って衰退していくのではないか」。同郷友会の花城可保会長(73)は危機感を募らせる。

 花城さん自身も戦後生まれ。戦前の下勢頭のことは知らないが、親の世代から古里の話を聞いて育ってきた。「行事を続けることで、心を一つにしてつながっていける」と信じ、若い世代へと古里が語り継がれることを願う。現在は、若い会員らが中心となって、基地内にある下勢頭集落を訪れる「ふるさと探訪事業」を始めるなど、古里の絆を受け継ごうと試行錯誤を続けている最中だ。

 嘉手納基地を見下ろす小さな丘に、下勢頭郷友会の合祀(ごうし)所と遙拝所がある。郷友会の人々は、下勢頭に点在している9カ所の神を合祀し、この地から遙拝(御通し願い)してきた。

 「あそこがアシビナージー(遊び庭近くの岩)だと思う」。12月18日、戦前の集落の姿を知る喜友名朝徳さん(84)と花城さんが合祀所を訪れ、集落のあった方向を見つめて感慨深そうに語った。

 戦後75年、古里を接収された下勢頭の人々は、フェンスの隔たりから解き放たれる日を思い浮かべつつ、文化や共同体意識を守ろうと活動を続けている。

(池田哲平)