「せめてウタキに入れるように」 心のよりどころに自由に入れず 米同時テロ以降厳しく <奪われた日・再生への願い―戦後75年県民の足跡⑤町田宗益さん>


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「チチェーンヌウタキに入れるようにしてほしい」と訴える町田宗益さん=2019年12月23日、読谷村牧原

 琉球王国の王府が所有する牧場を士族に開放して形成された読谷村牧原。戦後は米軍基地にその地を奪われ、住民の心のよりどころとなっている拝所「チチェーンヌウタキ」は現在の嘉手納弾薬庫のフェンス内にあり、自由に立ち入ることができなくなった。土地に翻弄(ほんろう)され続けた住民らは「戦争さえなければ」と口をそろえる。

 牧原で生まれ育った町田宗益さん(88)もその一人だ。集落北側にあった生家の屋号は「水車勢理客」。その名の通り家のすぐそばに水車があり、祖父は製糖作業に使用した。宗益さん家族はサトウキビやイネを作り、ブタやヤギも飼った。チチェーンヌウタキでは拝みのほか地域行事を催しており、宗益さんも「みんなで集まった」と振り返る。

 父の宗長さんは運送の仕事もしていたようで家には馬小屋もあった。45歳目前の宗長さんは1945年3月26日の慶良間諸島への米軍上陸を前に召集された。そのため住民の多くが国頭村浜に逃れていたが、妊娠していた母のウシさんと子ども5人となった宗益さんら家族は避難が遅れた。

 宗益さんらはウシさんの姉が暮らす石川の前原を経て、久志村三原の山に身を潜めて戦争の終わりを待った。避難生活が進むにつれて食料は底を尽き、浜比嘉に逃れることを決めた。

 そこでは芋などの食料にありつけたが、当時まだよちよち歩きだった一番下の妹・ツル子さんは衰弱しきっていた。「特にやせていた。自分たちも歩くのがやっとだったが…」と振り返る宗益さん。ツル子さんは間もなく息絶えた。宗長さんも南風原での目撃情報を最後に帰らぬ人となり、遺骨も見つかっていない。

 牧原では戦前、土地を所有する製糖会社と小作契約を結んだ住民が畑を耕し、居を構えていた。終戦とともに土地は米軍が強制接収。米統治下となったため農地改革が適用されず、住民に居住地や耕作地が払い下げられなかった。

 土地を追われた牧原住民は60年代から村比謝、伊良皆にまたがった地域を中心に集落を形成した。宗益さん家族も新たな地に移り、戦後しばらくは旧牧原地内で茶を栽培するなどして生計を立てた。

 基地内のウタキもかつては自由に出入りできたが、2001年の米同時多発テロ発生後はそれもできなくなった。今では旧集落の存在すら知らない村民も増えている。「せめてウタキに入れるようにしてほしい」。宗益さんは切に願っている。

(仲村良太)