沖縄戦で途絶えたノロの血縁… 伝統儀礼継承へ奮闘する女性の決意 <奪われた日・再生への願い―戦後75年県民の足跡⑥島袋順子さん>


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平安山ノロ殿内の年中行事を守る島袋順子さん=2019年12月26日、北谷町吉原

 激しい地上戦とその後の基地建設は住民から土地を奪っただけではなかった。土地の上で代々営まれていた伝統儀礼が戦争によって形を変えた。

 旧暦の12月1日となった昨年12月26日朝、北谷町吉原の民家の一角にある建物で、島袋順子さん(62)が水、酒を供え、準備を整えた。那覇から嫁いで30年余。旧暦1日、15日には、この小屋で祭壇とヒヌカン(火の神)に手を合わせ、拝んできた。「ヤナムン(災厄)をはねのけてください。平安山の地域を守ってください」

 島袋家にあるのは「平安山ノロ殿内」。琉球王朝時代、聞得大君を最高神女として各地を治めたノロの屋敷跡にあたる。平安山ノロは戦前、北谷村の平安山、桑江、伊礼、浜川、砂辺を管轄していた。

 平安山ノロ殿内はもともと吉原に置かれていたのではない。現在の北谷町伊平にあったノロ殿内の敷地が米軍に接収され、その後は移転を繰り返した。現在の場所に移って約40年がたつ。ノロ殿内にある1枚の写真には集落の人々が集まる様子も収められている。戦前は地域の人々が集まる場所でもあった。

戦前、平安山ノロ殿内で撮られたとされる写真。1938年ごろとみられる(平安山ノロ殿内にある写真を接写)

 祭祀の担い手であるノロ職の担い手も戦争によって失われた。現在、平安山ノロ殿内を守り、行事を継いでいる島袋さんはノロの後継者ではなかった。平安山ノロは沖縄戦で亡くなり、血縁は途絶えてしまった。

 戦前、ノロ職を務めていたのは島袋カナさん。沖縄戦当時80代だったという以外に記録は残っていない。そのカナさんも北谷町史などによると、戦時中、墓の中に逃げたが艦砲射撃に遭い、亡くなったとされる。

 「守っていくしかない。(行事の意味などを)なぜと考えていると前に進まない」。拝みを終え、顔を上げた島袋さんが語った。

 平安山ノロに養子として迎えられた家系の島袋家に1984年、嫁いだ。戦前のノロの行事を覚えていた叔母・比嘉ヒロさんに教わりながら、一つずつ覚えていったという。その比嘉さんも2018年、99歳で亡くなり、今は島袋さんが中心となって行事を行う。現在も平安山ノロ殿内には拝みに来る人が後を絶たない。島袋さんは「昔と比べると行事も簡素化していると思うし、一つ一つの意味も分からない。拝みに来る人がいるのは地域の守り神ということなのだろう。できる範囲のことをみんなでやっていきたい」

 戦争によって一度は消えかけた村の伝統儀礼。昔の形に再生するのは困難が伴う。ノロが担ってきた行事を次世代へつなごうと、大切に守り続けている。

(池田哲平)