「家族の顔、覚えていない」 母奪った銃弾、傷痕今も<奪われた日・再生への願い―戦後75年県民の足跡⑦大城政子さん㊤>


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「寒いと痛む」という沖縄戦で負った右膝の傷痕を見せる大城政子さん=2019年12月24日、糸満市

 「けがをして久志の野戦病院にいた」。沖縄戦当時4歳だった大城政子さん(79)=糸満市=は戦時中の記憶はおぼろげで、覚えているのは終戦間際のそこからだ。一緒に暮らしていた家族全員を戦争に奪われ「顔も覚えていない」。母のヨシ子さんは政子さんをおぶって戦場を逃げまどい、銃弾に倒れた。銃弾は政子さんの体にも傷痕を残した。

 1940年8月、小禄村で上原大郎さんとヨシ子さんの長女として生まれた。父方の祖母、曽祖母、妹の6人で暮らし、大郎さんは農業を営み、自宅では豚も飼っていた。

 身を寄せ合って暮らしていた家族を戦火が襲った。44年の10・10空襲、家族は母方の家にあった防空壕に避難した。自宅は全焼したが全員一命をとりとめた。

 だが、戦争は容赦なく政子さんの家族を奪っていった。妹と曽祖母は米軍上陸前の空襲で亡くなった。大郎さんは召集され、海軍に所属すると南洋群島に派兵された。後に現地で戦死したことを知らされたが、遺骨も拾えずにその地の石だけを持ち帰った。

 45年4月の米軍の本島上陸後、政子さん一家は母方の家族と一緒に豊見城城址近くの防空壕に身を隠した。6月ごろ、南下してきた米軍に見つかった。「出てこい」。片言の日本語を叫びながら米兵が壕の中に入ってきた。中にいた住民は別の出口から逃げ出したが、米兵の銃撃が始まった。弾は政子さんをおぶっていたヨシ子さんを襲った。弾はそのままヨシ子さんの体内に残り、その命を奪った。

 「私の足を抜けて母の体で止まったかもしれない」。政子さんの両足には傷痕がある。右膝は爆弾の破片によるものとみられる傷痕で、左のふくらはぎ辺りには弾が貫通した痕がある。母の命を奪った痕跡は今も自身の体に残っている。同じころに祖母も亡くなった。

 けがを負った政子さんは野戦病院に運ばれ、母の妹に引き取ってもらった。戦後はおばと母方の祖父母と暮らし、小学4年になると父方の祖父らと生活するようになった。いつも周囲には親族がいたが「お祝いとかで親族が集まると帰りは一人。一番寂しかった」。家族を失った後の記憶は今も鮮明に残っている。

(仲村良太)