沖縄戦は多くの死者と負傷者を出しただけでなく、戦後の食料不足や不衛生な生活環境によって、一命をとりとめた人たちをさらに苦しめ、多くの障がい者を生んだ。県生活福祉部の障害福祉白書によると、戦後当時の身体障がい者は約1万人と推定される。
視覚障がいがある安慶名貞子さん(80)=沖縄市=は戦後の収容所生活で、栄養失調と熱病の治療が受けられなかったことが原因で失明した。「二度とあんな苦労はしたくない」と振り返る。
1939年4月、旧具志川村(現うるま市)具志川で生まれた。沖縄戦当時は6歳。空襲で自宅が真っ赤に燃える様子をはっきり覚えている。父親におんぶされ、山中を逃げ回ったこともあった。自宅近くに掘った壕で家族や親戚と共に身を隠しているとき、米軍に捕らわれた。旧金武村(現宜野座村)惣慶の収容所に送られた。
収容所に送られた当初は食料がほとんどなく、ソテツの幹を食べて生活していた。栄養失調の状態が続く中、45年の夏ごろ、夜になると目が見えにくくなっていることに気付いた。その後、熱病にうなされた。医師は近くにおらず、戦前「はり・きゅう師」をしていたという父の友人を収容所に呼び、診てもらった。
「熱を冷ます治療法として、お湯につけたタオルを目に当てなさい」
周りの大人は父の友人の言う通り、高温のタオルを安慶名さんの目にかぶせ、何日も寝かせた。「熱いよ、熱いよ」。泣きわめき、何度もタオルを振り払った。
「泣きながら、涙と一緒に何か塊が二つ、落ちたように感じた」。それから何も見えなくなった。
その後も、収容所内の医師はホウ酸水を目に入れる処置しかしなかった。別の医師が来るという情報を聞くと、すぐに診てもらったが「栄養失調が原因だ。治らない」と言われ続けた。
しばらくして具志川の自宅近くの親戚の家に身を寄せ、すぐに両親と眼科に駆け込んだ。医師の一言に言葉を失った。「あと十日早かったら治ったのに」
その場で泣き崩れた。暗闇の世界で、もう二度と光を感じることはなかった。
父は、適切な治療ができる医師にすぐ連れて行けなかったことや医師ではない友人に見せたことをずっと後悔した。酒を飲むたびに娘を抱き締め、「すまなかったねー、貞子」と涙を流すようになった。
「私はもう諦めていたけど、泣いて謝る父がかわいそうだった」。父の姿を思い出しながら、安慶名さんは言葉を絞り出した。
(上里あやめ)