沖縄戦で家族全員を失った大城政子さん(79)=糸満市。小学校を卒業すると働かなければならず、憧れた中学生にはなれなかった。戦争のせいで、戦後は教育を受ける機会を奪われた政子さん。愚痴もこぼさず、ただひたすら前を向き、幼い少女は身を粉にして働いた。
戦後すぐは母の妹や母方の祖父母と暮らしていたが、小学4年になるとフィリピンから引き揚げた父方の祖父の家族と小禄村で暮らした。その時再婚していた祖父は政子さんよりも小さい子が2人いた。
「3歳のおじさんをおんぶして学校に行ったよ」。当時は1950年ごろ。働く祖父らに代わり、小さなおじたちの面倒を見た。学校が終わると畑仕事や家事を手伝った。
小学校を卒業すると働くことになった。一緒に暮らす祖父に経済的な負担はかけられない。戦後間もない時期、復興途中の沖縄では珍しいことではなかったが、同級生の多くは中学に進んだ。「中学校には行きたかったが、小さな子どももいたから…」と政子さんは振り返る。
13歳から那覇の親戚が営む靴屋に奉公し、18歳になるまで働いた。その間、給料のほとんどは祖父に送った。奉公を終えると、けがをした祖父の面倒を見るため、小禄に戻り、祖父家族と暮らした。畑仕事をしたり、小禄から奥武山あたりまで野菜を売って歩いたりした。朝から晩まで休むことなく働いた。
くたくたになって床につくとよく夢を見た。「学校に行って勉強していた」。戦争によって狂わされた政子さんの少女時代。夢の中では自由だった。
その後も親戚の靴屋や銭湯を手伝った。結婚したのは26歳のころ。それからは糸満で暮らし、5人の子ども、13人の孫、2人のひ孫に恵まれた。
政子さんはつらい戦後の記憶ばかりと向き合い、下を向いて暮らしているわけではなかった。「大変とは思わなかった。働くのも好きだったから」と気丈に語る。結婚してからも子育てをしながら、農作業に精を出した。
「うらやましいと思うこともあったけど、誰も恨んでない。精いっぱい生きた」。戦後、中学に通えず、周りをうらやむこともあったが、懸命に生きてきた自らの人生は悔いていない。今は多くの子や孫らに囲まれ、新しい夢を見るだけだ。「孫たちのためにも戦争のない平和な世になってほしい」
(仲村良太)