「見える人に負けるもんか」 夫婦で指圧師40年余り<奪われた日・再生への願い―戦後75年県民の足跡⑩安慶名貞子さん㊦>


この記事を書いた人 Avatar photo 琉球新報社
マッサージ店の開業に向けて準備を進めているころの安慶名貞子さん=1963年1月

 沖縄戦の後、栄養失調と熱病の治療が受けられず失明した安慶名貞子さん(80)=沖縄市。戦後、教育の機会も奪われた。那覇市にあった県立盲聾唖(ろうあ)学校の校舎は戦争で焼失した。学校の再開は敗戦から6年後の1951年だった。

 当時は、体に不自由がある家族を自宅の敷地内に隠す家庭も多かった。安慶名さんの父親も「娘を周囲の見せ物にしたくない」という思いが強く、学校が再開した後も安慶名さんが19歳になるまで入学させなかった。

 外出するときは隠れるように移動した。「きょうだいの運動会に行ったときも、後ろの方からしか見せてもらえなかった。何で私だけ前に出さないのかと思い、徐々に内気になった」

 学校から何度も募集の呼び掛けがあったが、父親は断り続けた。学生生活を夢見ながら、18歳まで近所の子どもたちの子守に明け暮れた。

 「ずっと学校に通いたかった」。そう振り返るが、子守をする生活は苦ではなかった。「友人が外に遊びに連れて行ってくれた。子守をした子どもたちの親からも励まされた」

 ある日、点字を学べることをラジオで知り、学校に行きたいという意志が強くなった。「盲学校で点字を習いたい」。父親を説得し、19歳で那覇市首里にあった「沖縄盲ろう学園」に入学した。自宅を離れて寮生活をしながら、3年間の学生生活を謳歌(おうか)した。「最初は文字の書き方も分からず難しかったが本当に楽しかった」。点字を習得し、あん摩マッサージ指圧師の資格を取得した。

 卒業後、那覇市のマッサージ店で1年間勤務した。63年、同僚で全盲の永吉さん(84)と結婚。同年、2人でコザ市にマッサージ店を開業した。「見える人に負けるもんか。目じゃなく手で仕事をするんだ、という気持ちで働いた」。2004年の大みそかに、40年余り続けた店の看板を下ろした。

 「見えなくなったことで後悔することはなかった」と語る。家事や外出も1人でこなした。「料理も自分で作った。つえ1本でどこまでも行った。目が見えないという感覚がなかった」

 現在は子ども3人、孫8人、ひ孫3人に囲まれてにぎやかな日々を過ごすが、戦争がもたらした悲劇を忘れることはない。「戦争さえなければ、目が見えていたら、友達と同じように普通学校で学ぶことができたのに」

 米国とイランの対立など不安定な国際情勢のニュースがテレビを通して耳に入る。「怖い。自分の子や孫たちに同じ苦しみを味わってほしくない」と不安を感じる。「二度と戦争をしてはいけない」。ひ孫をぎゅっと抱きしめた。

(上里あやめ)