「同じ思いさせたくない」 幼い頃の辛い記憶から結婚するも子どもはつくらず 戦後、男性が歩んだ道とは… <奪われた日・再生への願い―戦後75年県民の足跡⑪大城勲さん>


この記事を書いた人 Avatar photo 琉球新報社
沖縄戦で孤児となり「子どもに同じ思いをさせたくなかった」と語る大城勲さん=2019年12月28日、豊見城市内

 戦争に家族を奪われ、つらい子ども時代を過ごした記憶は未来の家族も奪った―。兼城村波平(現・糸満市北波平)で生まれた大城勲さん(77)=同市=は沖縄戦で両親を失った。「同じ思いをさせたくない」。戦後、結婚はしたが子どもをつくることをためらうしかなかった。

 1942年8月に生まれ、沖縄戦当時は2歳。戦時中の記憶はなく、異母姉や親戚から話を聞かされた。父の良健さんは開拓先のフィリピンで徴兵され戦死。沖縄にいた父方の祖父母と母・カマドさん、弟は戦争で亡くなった。戦後、異母姉らと弟の4人で越来村嘉間良の収容所に連れていかれ、弟はそこで亡くなった。戦後すぐはおじ宅、その後は2人の異母姉と実家で暮らした。

 大城さんが6歳になった48年、父と共にフィリピンに行っていた21歳年上の異母兄が帰ってきた。片腕を失い、農作業にも苦労した兄は助けが必要で、大城さんは「片腕の代わりになった」。朝から畑仕事を手伝い、学校から帰るとまた手伝った。夜は芋をふかし、カズラなどはブタやヤギに与えた。懸命に家の仕事を努めたのに、大城さんが食べるのはいつも最後で冷えた物だった。

 「甘えることも、せがむこともできなかった。いつも説教ばかりで褒められたこともない」。兄の子どもは12人。それでも大城さんが行けなかった修学旅行に、年齢の近いいとこは行っていた。「何で自分だけ…」

 いとこへの優しさが大城さんへの厳しさを一層際立たせた。見かねた母方の祖母が大城さんを施設に入れるよう求めたが、兄は聞く耳を持たなかった。

 夜遅くまで働いた大城さんは「学校ではずっと寝ていた。だから友達もできなかった」とつぶやく。

 中学に上がると、那覇港の桟橋で働くことになり、稼ぎは兄に渡した。卒業後は農林高校に行きたかったが、行かせてもらえず那覇市天久で修理工見習いとして住み込みで働いた。23歳から、当時は給料が良かった米軍基地内で勤務した。「カメジロー(瀬長亀次郎氏)ファンだったが、面接で『自民党支持』とうそをついた」と笑う。

 30歳になると結婚。当時、ベトナム戦争真っただ中で、在沖米軍基地は攻撃のために使用されていた。「戦争に巻き込まれ、自分の子が孤児になるかもしれない」。妻と相談し、子どもはつくらないと決めた。自分と同じ思いをさせたくない一心だった。

 その後は米軍基地も辞め、タクシー運転手などを務めた。妻が他界した今はまた1人暮らしに。

 「戦争の始まりは人間の欲望。沖縄に基地がある限り、沖縄は平和にならない。日本はまた戦争に向かうかもしれない」。つらい記憶を残した戦争への忌避感は、今も大城さんを包む。

(仲村良太)