集落の4割以上が犠牲になった村 戦後、焼け野原からの再建 途絶えた祭りも復活<奪われた日・再生への願い―戦後75年県民の足跡⑫・保栄茂の大豊年祭>


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6年に1度行われる保栄茂の大豊年祭の奉納舞踊「四季口説」で使われる衣装を前に、祭りの意義などについて語る(左から)當銘正幸さん、當銘健一さん=21日、豊見城市保栄茂自治会

 6年に1度、卯(う)年と酉(とり)年の旧暦8月15日に開かれる豊見城市保栄茂の大豊年祭。300年以上の歴史がある「巻ち棒」や伝統芸能が披露され、集落は活気にあふれる。一連の行事の発祥地とされる「上宜保」で子どもたちが披露する奉納舞踊「四季口説」の衣装は、赤の背景に黄や緑の葉の模様がついた鮮やかな柄の布地でひときわ目を引く。この衣装には沖縄戦後、集落の祭りを再生させ、守り継いだ保栄茂の人々の歴史が詰まっている。

 1945年4月19日、晴れ渡った空から米軍機が保栄茂の集落に襲いかかった。集落に爆弾を次々と投下し、超低空でガソリンをまいて、焼夷(しょうい)弾を落とした。「保栄茂にとって最悪の日」(「保栄茂ぬ字史」)、先祖から脈々と築き上げていった土地、建物が灰燼(かいじん)に帰した。戦況が悪化するにつれて、保栄茂のほとんどの人々は糸満市喜屋武や摩文仁へと逃げ、集落の4割以上に当たる350人余りが犠牲となった。

 47年ごろ、各地の収容所から戻った住民らは焼け野原に小屋を建て、集落を再建させていった。「全部焼けて、残ったのは瓦ぶきの建物が少しだけ。住民は気力すらなかった」。沖縄戦当時、4歳だった當銘正幸さん(78)はそう振り返る。サトウキビを主とした静かな農村の営みはゼロからの再出発だった。

 こうした中、戦前に保栄茂からハワイへ移住した當銘亀さんから荷物が届いた。戦争によって途絶えた豊年祭の衣装に使ってもらおうと贈られた生地だった。住民らはこの生地を縫って衣装を作り、卯年の51年、歴史ある豊年祭を復活させた。

沖縄戦で集落のほとんどが焼けた後、復活した大豊年祭で撮られた集合写真=1957年(「保栄茂ぬ字史」より)

 「集落が団結するには祭りが重要だとみんな感じていた。戦争でほとんどの人が肉親を失った時期で、ハワイから贈られた衣装の生地をみんな喜んでいた」と當銘さん。自身もハワイから贈られた衣装をまとい、伝統舞踊「カサグヮー」や「ウフガサ」を豊年祭で踊ったこともある。當銘さんによると、「四季口説」の衣装は敗戦直後に作られ、唯一現存するもので、6年ごとの大豊年祭に使われているものだという。

 2017年10月8日、酉年に当たる大豊年祭が保栄茂集落で開かれた。伝統芸能が披露され、中学生から60代までの男性150人が勇壮な「巻ち棒」を披露した。一糸乱れぬウー棒とミー棒の二つの巻ちは見事に合流し、ほどけていった。當銘健一自治会長は「祭りによって共同の精神が培われてきた」と意義を語る。沖縄戦で失われた祭りを再生させた思いは、脈々と受け継がれている。

(池田哲平)