「爆弾の音が地響きで伝わってきた。怖くてぶるぶる震えていた」。聴覚障がいのある友寄美代子さん(85)=浦添市=は、両手を動かし、手話を使いながら戦争の様子を伝える。当時12歳。爆弾の黒い煙や焦げ臭い臭い、家族の表情、死体の臭い…。無音の中で感じ取った戦場を今も鮮明に覚えている。
1934年2月、那覇市山下町で生まれた。一つ屋根の下、両親、3人の姉、兄と親戚ら約10人で生活していた。4歳のころ、はしかによる高熱が原因で聴覚を失った。左耳は全く聞こえない。右耳は大きな音の振動を感じる程度だ。幼いころから体調が不安定で、7歳ごろまで歩くことができなかった。
9歳で那覇市の県立盲聾唖(ろうあ)学校に入学した。「授業で先生は口を大きく開けて話した。口の動きを読み取って単語や勉強を教わった」。だが、小学校生活は短かった。意思疎通のすべを十分に学べないまま、小学2年生のときに戦争に巻き込まれた。
44年10月10日の空襲で自宅は全焼。家族、親戚と自宅近くの壕に身を潜め、一命を取り留めた。6日後に壕を出た。はぐれないように、おなかをひもで巻き、姉たちと列になって移動した。草むらをかき分け、古い屋敷にたどり着いた。翌年4月までそこで生活した。
わずか2年の学校生活で学んだものは簡単な単語程度。家族とは身ぶり手ぶりで会話をした。人さし指で鼻をなぞると「米兵」、両腕を横に大きく広げるしぐさは「飛行機」、手で首元を斜めになぞるのは「殺される」。母が教えた身ぶりだけが頼りだった。
爆弾が落ちる度に振動が体中に伝わり体を震わせた。「これは戦争?」。周りの緊迫感を感じ取って状況を読み取る日々。「何が起こっているの?」「怖い」。身ぶりと声で母に不安な気持ちを伝えようとした。母は必死に「静かにして」と唇に人さし指を当てた。ハンカチで口を押さえられることもあった。「周りを見て誰かが動いたらそこに動く。誰とも話さずじっと黙っていた」
5月に入り、屋敷を出て豊見城村(現・豊見城市)に向かった。歩いて渡った川には無数の死体が浮いていた。おびえながら歩くと、ぬかるみに足を取られた。近くにいた日本兵が友寄さんの叫び声に気付き、体を引っ張ってくれた。死体に向かって手を合わせた後、移動を続けた。
「ものすごく臭かった。今でも死臭を覚えている」。着ていた服には臭いが染み付いていた。
「戦争の記憶は取り除くことができない。ふと思い出してしまう」。脳裏に焼き付いた戦場の光景が今も友寄さんを苦しめる。
(上里あやめ)