死体の臭い、黒い煙… 無音の中の戦場は今も 聴覚障がい者が体験した沖縄戦 <奪われた日・再生への願い―戦後75年県民の足跡⑬友寄美代子さん㊤>


この記事を書いた人 Avatar photo 琉球新報社
通所する就労継続支援B型事業所「みみの木」の施設長と手話通訳者の手を借りて戦争体験を説明する友寄美代子さん=17日、那覇市若狭の同事業所

 「爆弾の音が地響きで伝わってきた。怖くてぶるぶる震えていた」。聴覚障がいのある友寄美代子さん(85)=浦添市=は、両手を動かし、手話を使いながら戦争の様子を伝える。当時12歳。爆弾の黒い煙や焦げ臭い臭い、家族の表情、死体の臭い…。無音の中で感じ取った戦場を今も鮮明に覚えている。

 1934年2月、那覇市山下町で生まれた。一つ屋根の下、両親、3人の姉、兄と親戚ら約10人で生活していた。4歳のころ、はしかによる高熱が原因で聴覚を失った。左耳は全く聞こえない。右耳は大きな音の振動を感じる程度だ。幼いころから体調が不安定で、7歳ごろまで歩くことができなかった。

 9歳で那覇市の県立盲聾唖(ろうあ)学校に入学した。「授業で先生は口を大きく開けて話した。口の動きを読み取って単語や勉強を教わった」。だが、小学校生活は短かった。意思疎通のすべを十分に学べないまま、小学2年生のときに戦争に巻き込まれた。

 44年10月10日の空襲で自宅は全焼。家族、親戚と自宅近くの壕に身を潜め、一命を取り留めた。6日後に壕を出た。はぐれないように、おなかをひもで巻き、姉たちと列になって移動した。草むらをかき分け、古い屋敷にたどり着いた。翌年4月までそこで生活した。

 わずか2年の学校生活で学んだものは簡単な単語程度。家族とは身ぶり手ぶりで会話をした。人さし指で鼻をなぞると「米兵」、両腕を横に大きく広げるしぐさは「飛行機」、手で首元を斜めになぞるのは「殺される」。母が教えた身ぶりだけが頼りだった。

 爆弾が落ちる度に振動が体中に伝わり体を震わせた。「これは戦争?」。周りの緊迫感を感じ取って状況を読み取る日々。「何が起こっているの?」「怖い」。身ぶりと声で母に不安な気持ちを伝えようとした。母は必死に「静かにして」と唇に人さし指を当てた。ハンカチで口を押さえられることもあった。「周りを見て誰かが動いたらそこに動く。誰とも話さずじっと黙っていた」

 5月に入り、屋敷を出て豊見城村(現・豊見城市)に向かった。歩いて渡った川には無数の死体が浮いていた。おびえながら歩くと、ぬかるみに足を取られた。近くにいた日本兵が友寄さんの叫び声に気付き、体を引っ張ってくれた。死体に向かって手を合わせた後、移動を続けた。

 「ものすごく臭かった。今でも死臭を覚えている」。着ていた服には臭いが染み付いていた。

 「戦争の記憶は取り除くことができない。ふと思い出してしまう」。脳裏に焼き付いた戦場の光景が今も友寄さんを苦しめる。

(上里あやめ)