「あれは戦争だったんだ」 手話を学び語り合うことで自分の体験を理解 <奪われた日・再生への願い―戦後75年県民の足跡⑭友寄美代子さん㊦>


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友寄美代子さんが3人の姉と戦前に撮った写真(写真裏に「十七歳春子さん 二十歳上阪の記念」、長女23歳、次女20歳、三女19歳、本人は6歳)

 聴覚障がいがあり、「無音の戦場」を逃げ回った友寄美代子さん(85)=浦添市。1945年5月ごろ、家族、親戚、移動中に遭遇した日本兵2人と、現在の豊見城市の海軍司令部壕近くにあった大きな亀甲墓に避難した。

 日中は墓の前で生活し、夜になると中に入った。父は食料を探すために墓を出入りした。

 ある日、外に出た父が帰って来ないことを気に掛け、大人たちが探しに行った。戻った母が泣きながら人さし指で鼻をなぞる身ぶりを見せた。「米兵、飛行機、撃った」。父は草むらで血を流して倒れていたという。左胸のあたりに銃撃の痕があったと母から伝えられた。「足がガクガクして、涙が出てきた」

 爆弾の振動を感じて震えている時、父は腕をぎゅっとつかんで背中をさすってくれた。「いつも『どこにも行かないでね』という気持ちだった。なんで死んじゃったの」

 遺体があった場所には連れて行ってもらえなかった。大人たちは遺体をそのままにして、墓に戻って生活を続けた。6月、墓の外で米軍に捕らわれた。親戚の男性3人は外に出るのを拒んで墓に残った。その後、3人に会うことはなかった。

 名護の収容所で46年1月まで生活した。那覇市山下町に戻り、自宅近くに住んでいた親戚の家で生活を始めた。

 戦前通った校舎は戦争で焼け、敗戦から6年後の51年に学校は再開した。その間、障がい者教育の環境整備は止まったままだった。友寄さんは教育を受けずに家の畑仕事を手伝った。戦後も家族と意思疎通がうまくできない時間が続いた。

 18歳から那覇市首里にあった「更生相談所」に通った。「視覚や聴覚に障がいがある人が集まって勉強する場になっていた。戦前同じ学校に通っていた友人とも再会した」。しかし、19歳で心臓の病気を患い、1年で勉学を断念した。

 手話を本格的に学んだのは二十代になってから。ろう者の集まりや手話サークルに参加するようになり、徐々に身に付けた。同じ聴覚障がい者と話すことでやっと、自身の戦争体験を理解できた。「あれは戦争だったんだ」。断片的だった記憶がさらに鮮明になった。

 「父が亡くなった時のことを特に鮮明に覚えている。その日を思い出して夜、眠れないこともある」

 教育の機会を奪われ、十分に自身の気持ちを伝えられないまま大人になった。「今は会話ができることが楽しい」とほほ笑むが、思いが伝わらない苦しさを何度も経験した。その一方で戦争体験を言語化できるようになると、75年前の光景が忘れられなくなった。

 「体験を語ることで戦争は駄目だと伝えたい」。言葉にはならない大きな声に思いを込め、訴えた。

 (上里あやめ)