より良い生活を求めて南洋諸島に移り住んだ入植者の娘は戦争によって家族と引き離され、その時の記憶に今も苦しめられている。
岸本セツ子さん(80)=那覇市=は1939年3月、瑞慶覧長英さんとツルさんの次女としてパラオのバベルダオブ島にあった日本人の入植地・瑞穂村で生まれた。長英さんはサイパンで農耕をしていたが、パラオに移り瑞穂村で小学校の校長が持っていたという土地を購入した。両親と姉、弟の5人で暮らしていた。
パラオに住んでいた日本人移民は37年時点で1万1391人。このうち県人は4799人で、4割余を占めた。人々は新天地での成功を求めて移り住んでいた。屋敷が大きかったセツ子さん宅は「マンゴーやパパイアがいっぱいなっていた」という。楽園のような暮らしだった。
44年に入ると入植者たちも戦渦に飲み込まれていった。同年3月、対岸のコロール島が米軍による大空襲を受けた。小高い丘の上にあった瑞穂村から攻撃を目の当たりにしたセツ子さんは「コロールの街が全部燃えていた」と振り返る。その後、パラオには陸軍第14師団が派兵され、長英さんは14師団歩兵第59連隊に現地召集された。
同じ頃、セツ子さん宅に日本軍のトラックが大挙して来た。屋敷を兵舎として使うためだった。自宅を追われたツルさんとセツ子さんら子ども3人は、村の人たちと避難するために島の中央部の朝日村に向かった。その時、ツルさんは新たな命を授かっていた。
山道は幼いセツ子さんには過酷だった。道の傍らには兵士の死体が転がっており、丸太の橋で川を渡ったこともあった。それに加えて身重のツルさんはよちよち歩きの弟もおぶり、セツ子さんに構ってはいられなかった。
「もう歩けない」。セツ子さんは泣きついたが、ツルさんは聞かなかった。村の人たちとはぐれれば家族全員が死ぬかもしれない。ツルさんは「そこにいなさい」と離れていった。だんだんとその姿が小さくなると、セツ子さんは母を追い掛けた。やっとの思いで追いつくと抱きしめられた。ツルさんは泣いていた。
戦後、沖縄に戻ったセツ子さんは何度もあの時の涙の意味をツルさんに聞こうとしたが本当の意味を知るのが怖かった。「弟が憎たらしかった。母は捨てるつもりだったのかもしれない。死んでいたかもしれない。孤児になっていたかもしれない」。聞けないままツルさんは他界した。戦時中の記憶が今もセツ子さんを揺さぶっている。
(仲村良太)