「パラオの家に行きたい」 困窮で父の夢かなわず <奪われた日・再生への願い―戦後75年県民の足跡(16)岸本セツ子さん㊦>


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43年ぶりにパラオを訪れ屋敷跡で手を合わせる岸本セツ子さん(左から4人目)ら=1988年6月、パラオ(岸本セツ子さん提供)

 太平洋戦争真っただ中、暮らしていたパラオの瑞穂村から避難した岸本セツ子さん(80)=那覇市=ら家族は全員無事に朝日村にたどり着いた。妊娠していた母の瑞慶覧ツルさんは一度瑞穂村に戻り、自宅の防空壕に隠れて無事出産。セツ子さんたちきょうだいは4人となり、ツルさんと共に朝日村で避難生活を続けた。

 父の長英さんは陸軍第14師団歩兵第59連隊に現地召集されていた。

 同師団はペリリュー島などで米軍と激しい戦闘を繰り広げ、壊滅状態となったが、長英さんは生き延びた。

 1945年夏、家族は長英さんと面会する機会が与えられた。対面した長英さんは覚悟を決めた表情だった。「人間魚雷」として米軍の船に突撃することになっていた。「みんな元気で沖縄に帰りなさいよ」。セツ子さんは父との別れを覚悟した。

 父の死を意識したが、何日かすると長英さんは家族の元に帰ってきた。突撃の前に終戦を迎えることができた。

 「帰ろう」。家族全員で両親の出身地・玉城村に引き揚げ、長英さんの両親宅で暮らした。

 祖父母は冷たかった。長英さんの弟と妹は戦死、親族の多くも沖縄戦で亡くなった。南洋諸島に移り住んだ長英さんは大金を手にして戻ってくると期待していたが、日本に強制送還された一家が持ち帰ったのは鍋や服だけ。セツ子さんら子どもは4人に増えていた。「金はもうけないで、口だけ増やしてきた」。一家は家を出ることにした。

 その後は母の姉を頼って近くに引っ越し、いとこに紹介してもらい、那覇で暮らした。長英さんは借りた畑で農業をしながら那覇港で「赤帽」などをして働いた。母は行商で野菜を売った。経済的に困窮する中、長英さんは「パラオの家に行きたい」と夢を語っていた。

 だが、その願いはかなわず長英さんは64歳で他界した。「かなえてあげられなかった」。遺志を継ぐようにセツ子さんとツルさん、姉の3人は88年6月、初めてパラオを訪問。同窓生らと共に瑞穂村へ向かった。

 村に着くと痕跡はほとんど残っていなかった。生家は跡形も無く、弟が生まれた防空壕の入り口などがわずかに残るだけ。

 その屋敷跡でセツ子さんらは手を合わせた。再訪の願いがかなわなかった父の分も祈った。

 全てを奪う戦争はもういらない。現在、セツ子さんは辺野古新基地建設の中止を求める「新しい提案」に関する意見書を、全国の地方議会が可決するよう求める陳情の提出者に名を連ねている。「戦争につながる不平等が沖縄に押し込められている」。家族を苦しめた体験が今もセツ子さんを突き動かしている。

 (仲村良太)