「父の手は命綱だった」 全盲の男性、見えない戦場逃げ回る <奪われた日・再生への願い―戦後75年県民の足跡⑰金城澄男さん>


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戦時中、通ることができなかった旧石川橋に立つ金城澄男さん=1月10日、うるま市石川の旧石川橋

 「父の手は命綱だった」。戦時中、身体に障がいがある人々は家族の力を借りて懸命に避難した。全盲の金城澄男さん(84)=うるま市=は、父に手を引かれ、見えない戦場を逃げ回った。当時10歳。「まだ子どもで、戦争の怖さが分からなかった。数年たってようやく実感した」

 1935年、旧具志川村(現うるま市)兼箇段で生まれた。2歳の時、はしかが原因で失明した。6人きょうだい(当時)の長男。末っ子は当時2歳の双子だった。共働きの両親の代わりに幼いきょうだいの子守をする生活をしていた。

 44年10月10日、“見えない戦争”が始まった。「ドドドドーッと戦闘機の音がした」。父が空襲だと気づき、急いで自宅近くの壕に避難した。その後も空襲は続いた。爆弾の音や家族の声で状況を把握した。「爆弾が落ちたら地震のように地面が揺れる。そのたびにみんなで抱き合った」

 4月の米軍上陸後、家族8人で北部を目指した。片手を父に引かれ、もう片方の手は弟とつないだ。背中には双子の弟をおぶった。戦場は見えないが、爆弾の光はまぶしく感じた。「次はどこに落ちるんだろうと楽しむ自分もいた」

 4月中旬、旧美里村石川(現・うるま市石川)の旧石川橋を通ろうとしたが、橋は米軍の北進を阻止するため、日本軍によって壊されていた。北上を断念し引き返していた時、強い光を感じた。「ピカッと照明弾が上がった」。父と一緒にいた5人は、近くの草むらに隠れた。母たち3人はそのまま道を進んだという。家族は離れ離れになった。

 橋を離れて数日後、5人は旧具志川村(現うるま市)栄野比で米軍に捕らわれ、旧勝連村南風原(現・うるま市勝連)に移された。

 母乳を飲んでいた末っ子は母と離れ、栄養不足に。ある日の明け方、栄養失調で息を引き取った。「『母ちゃんがいたらな』とみんなで話した」。母たちと再会したのは半年後だった。

 戦後、数年がたって兼箇段に戻った。沖縄盲学校や東京の学校で、はり・きゅうを学んだ。70年に金城鍼灸(しんきゅう)院を開業し、50年目を迎える。戦後75年がたった今でも、同年代の友人と沖縄戦について話すことがある。「日本は負けると分かっていたはずなのに。どこかで食い止めておけば」

 戦時中、渡れなかった旧石川橋の前に立ち、思うのは「何があっても戦争はあってはいけない」。戦後75年、世界の各地では争いが絶えない。「もしまた戦争が始まってしまったら。どこかの国が核を使ったら。前の戦争とは比べものにならない」。渡れなかった橋の前で、渡ってはいけない橋を渡ろうとする世界の情勢に思いをはせるその手には、あの日の父の手の感触が今も残っている。

(上里あやめ)