7歳にして一人で生きていくことを強いられた嘉陽宗伸さん(82)=那覇市首里山川町=は孤児院を転々とし、中学生のころ首里孤児院(現那覇市首里当蔵町)に移った。「悲しんだり他人をうらやんだりする暇はなかった」。最初に収容されたコザ孤児院(現沖縄市)で何度も聞いた「生きなさい」という言葉を胸に苦境を乗り越えた。
首里孤児院から中学校への登下校中は、道端に捨てられたたばこの吸い殻を集めた。分解して葉っぱを寄せ集め、紙で巻き直す。「これを売って、生活費に充てるんだ」。米兵の住宅街に行き、ごみ捨て場から食料を探す。賞味期限が過ぎたのか、膨れ上がった缶詰でも持ち帰り、食べたり売ったりした。
家にいる時間は勉強漬けだった。「周りの友人たちと一緒の高校に行きたかったから」。首里高校に合格したのを機に、孤児院を出て公民館の部屋を借りた。たばこの吸い殻集めやごみ捨て場あさりだけでなく、休日はハウスキーパーとしても働いた。生きるために必死だった。
高校を卒業後、地元の新聞社に就職した。しばらくして東京に転勤になった。「偉くなるためにはもっと勉強しなければならないと思った」。働きながら大学の夜間学部に通った。東京勤務時代に結婚し、家族ができた。妻には「悔いのないよう生きてほしい」と言い続けた。フラワー装飾にのめり込んだ妻は卓越した技能が評価され「現代の名工」に選ばれもした。日本復帰前に沖縄に戻った嘉陽さんは、子会社の役員まで勤め上げ、定年退職した。
高校時代から続けていることがある。友人に勧められた俳句だ。題材は反戦と平和。「沖縄戦を生き抜いた人間として、平和を求め続けるのは責務」。語気を強める。
昨夏、新基地建設が進む名護市辺野古に足を運んだ。山を崩し、多様な生物を育む宝の海に土砂を流し込む。「死んでいくのはジュゴンやウミガメだけじゃない。海だって死んでしまう」
《海もまた 生き埋になる 辺野古の夏》
怒りを込めて詠んだ句は昨年、現代俳句の全国大会で賞を取った。
嘉陽さんは今、沖縄戦の体験や戦後をまとめた自分史を書いている。「泥だらけになってでも必死に生きた。こんな苦しい思いは、もう散々だ…」。後世の人たちには、決して同じ思いを味わわせたくない。
(高田佳典)