社会

<未来に伝える沖縄戦>パラオで戦争、銃弾の雨 仲村芳子さん(92)

パラオであった戦争体験を語る仲村芳子さん=1月16日、北谷町港の自宅

 本部町出身の仲村芳子さん(92)=北谷町=は小学校卒業後、母や弟、妹たちと移住したパラオで戦争を体験しました。美しい海と豊かな自然に囲まれ、作物がよく育ったというパラオでしたが、戦争で空襲に追われた日々は「飢え」との闘いでもありました。仲村さんの話を県立北谷高校の高宮城実汰さん(16)と山内悠矢さん(16)が聞きました。

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 〈本部町で生まれ小学校を卒業した仲村さんは、家族とともにパラオへ引っ越します〉

 小学校を卒業したあと、母と弟、2人の妹たちとパラオへ引っ越しました。父は巡査で、八重山にいました。パラオは海がとってもきれいで、戦争がなければ極楽のような島でした。果物もいっぱいあって、浜に降りれば貝がたくさん採れる。スコールがあって、毎日必ず雨が降るので、根菜や葉野菜などの作物もよく育ちました。

 住民は小船に野菜などを積んで、物々交換をして暮らしていました。私たちは海のそばでかつお節を作っていました。親戚のおじさんがカツオ船を持っていたので、14歳ごろだった私は、男の人たちに交じってカツオを解体して働きました。おばさんはコロールという町のほうで料亭をしていました。パラオでは真珠貝の採取もしていて、町はとても栄えていました。

 〈1941年12月、太平洋戦争が始まります。仲村さんのいたパラオ本島にも戦争の足音が近づいてきました〉

 大東亜戦争(太平洋戦争)が始まる前まで日本は勝っていて、上海や南京が陥落したときはお祭りムードでした。そのうち、日本軍がハワイの真珠湾を攻撃したというニュースが飛び込んできました。

 ニュースを聞いたときはみんな「わーすごい」と喝采しましたが、1年、2年と時がたつにつれて物資がなくなっていきました。お店がなくなっていき、食糧は配給制になりました。決められた量のお米をもらっても、三食食べられる量には足りませんでした。

 中学校の授業は午前中だけで、午後は軍事訓練のようでした。男子はたこつぼ(人の背ほどの高さの穴を掘り、1人入るような壕)や防空壕を造ったり、竹やりの訓練をしたり。女子は包帯の巻き方など兵隊の看護の練習をしたり、兵隊への炊き出しをしたりしていました。

 一度だけ見習い生のようなときに、軍艦が沈められたというので看護に行きましたが、恐ろしくて包帯を巻くどころではありませんでした。やけどした兵隊たちに包帯を巻いて看護しなさいと言われたって、16歳の子どもにできるわけないしょう。見るだけでも恐ろしく、震えていました。

※続きは2月12日付紙面をご覧ください。



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