太平洋戦争真っただ中、県立工業学校に通っていた金武村出身の松堂昌永さん(89)=那覇市=は軍の通信隊の試験を白紙で提出した。入隊は免れたが、代わりに戦場に駆り出されたのは試験に合格した同級生たちだった。沖縄戦で約9割が戦死したとされる工業学校の生徒による工業鉄血勤皇隊、工業通信隊。試験はまさに、少年たちの生死の分かれ道となった。
1930年10月、金武村の並里で生まれた松堂さん。戦時下で工兵隊の技術将校に憧れ、44年に首里にあった県立工業学校に入学した。同じ金武出身者らと一緒に首里大中町の下宿で暮らしながら、応用化学科で学んだ。
戦時下の学校では、毒ガスや爆薬の作り方を学んだ。戦禍が激しくなっていた当時は既に物資が乏しくなっており、実際に作ることはほとんどなく、理論を中心に学んだ。首里城の記念運動場では、木刀で訓練することもあった。
44年10月10日、米軍の空襲が沖縄を覆った。赤く染まった那覇の街を首里から見下ろすしかなかった。下宿に戻ると、金武まで米を取りに行くよう言われた。空襲の合間を縫って首里に戻ってくると、学校から非常召集が掛かった。戦が近づいていた。
工業学校の生徒らは戦争の準備を担わされた。建築の知識がある上級生は兵舎などを建てた。松堂さんら1年生は現場作業に従事した。天久では砲台、与那原では港の拡張、南風原では陣地構築などに携わった。「どこでもひたすら土を運んだ」。どこの現場でも作業はほとんど同じで、必要とされた土を運び続けた。
「入学した時はうれしかったけれど、あんなことになるとは思わなかった」。松堂さんは当時を振り返りながら首をかしげる。
45年1月、首里城地下に壕を築いていた第32軍司令部直属の第5砲兵司令部の将校らが、軍の通信業務を担当させるため1、2年生を対象に適性検査を実施した。松堂さんら応用化学科の1年生も教室に集められ、試験に臨んだ。
試験前夜、松堂さんは下宿先で同郷の友人たちと話し合っていた。その時、頭に浮かんだのは金武で暮らす親やきょうだいの顔だった。「戦場に行きたくない。書かないでおこう」。松堂さんは友人らと誓い合った。試験会場で机に向かった松堂さんは何も書かず、会場を後にした。
(仲村良太)