「みんな秀才だった。生きていたら活躍したはずね」 友を思い福祉にまい進<奪われた日・再生への願い―戦後75年県民の足跡㉑松堂昌永さん㊦>


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県立工業学校の同窓生と再会し酒を酌み交わす松堂昌永さん(柱の左の最後列)=1956年8月(松堂昌永さん提供)

 首里の県立工業学校に通っていた松堂昌永さん(89)=那覇市=は軍の通信隊への入隊を免れ、米軍が上陸した1945年4月までには生まれ育った金武村に帰郷していた。入隊した14歳前後だった同級生の多くは戦死した。彼らへの思いを重ねるように、戦後は沖縄の児童福祉向上に身をささげた。

 戦後、宜野座高校に編入して学び、卒業後は金武村役場で勤めた。53年、琉球列島米国民政府(USCAR)の援助で日本社会事業短期大学に通うことになった。福祉施設管理者、児童福祉司などの資格を取得して、琉球政府の職員として採用された。中央児童相談所や石嶺児童園、少年院などで働いた。

 コザでは、少女たちを引き取り、戦後沖縄で福祉活動に貢献し「福祉の母」と呼ばれた島マスさんが設立した女子ホームに連れて行った。当時は多くの戦争孤児が町にたむろしていた。琉球少年院は設立当初から携わった。

 那覇に住んでいたが、仕事を終えて自宅で一休みしても、子どもたちが“脱走”などすれば昼夜を問わず呼び出された。気苦労の絶えない仕事だったが、投げ出すことはなかった。児童園では”不良”と呼ばれた少年たちと一緒に畑作業をして向き合った。「援助を受けたから」。次の世代への使命感だった。

 戦後75年。この時間の経過と比べれば松堂さんが県立工業学校に通っていたのは一瞬だったかもしれないが、友人たちとの記憶は心に深く刻まれている。

 「森田はいつもにぎり飯をくれた」「石川は小さかったが勉強はよくできた」「赤比地は級長だった」。思い出すのは適性検査を突破し、通信隊に学徒動員された友たち。「みんなディキヤー(秀才)だった。生きていたら活躍していたはずね」と思いを巡らせる。

 友の多くが戦死した。同時に、教室で机を並べ、青春時代を共に過ごした記憶もよみがえる。表情に自然と笑みがこぼれた。

 定年退職後は専門学校などで講師を務めるなど児童福祉の後進育成にも力を注いだ松堂さん。戦後、子どもたちと関わった仕事は大変だったが「みな成長していったのが良かった」と振り返る。同級生を思い出した時と同じようにほほ笑んだ。

(仲村良太)