「海軍兵学校に行くこと。それがあの頃の夢だった」。喜納政保(まさやす)さん(88)=那覇市松山=は軍国少年だった幼少時の記憶をたぐり、こう回想した。
沖縄に戦火が迫る前夜の1944年4月。喜納さんは県立第二中学校に入学した。軍国教育が浸透していた当時、学科のほとんどの時間が「修身教育」に充てられた。教えられたのは、皇国史観に基づく歴史、それに歴代の武人たちの武勇伝がほとんどだった。
「よく覚えているのが、八重山出身の大舛(松市)大尉の話。南洋で戦死し、2階級特進を果たした人物で、『軍神』として祭られていました」
新聞は日々の戦果を書き立て、学校では敵国を蹴散らす軍人の活躍を聞いた。「『戦いに負けた』なんて話は出てこなかった。先生の言うことは絶対でしたから、子どもの私も負けるなんてこれっぽっちも考えてなかった」
中学入学前、天妃国民学校に通っている時、ある軍人が学校を訪れた。陸軍士官学校に進んだ小学校の卒業生で、「丹下」と名乗っていた。「軍服を着てサーベルを下げて、それはりりしいものでしたよ」
母校に凱旋(がいせん)した若い将校は、目を輝かせる後輩の少年少女を前にしてこんなアドバイスを送った。「ドイツ語を勉強しなさい。これから20年後、ドイツと戦争することがあるかもしれない」
当時、日本はドイツ、イタリアと同盟関係にあった。将校は、ヒトラー率いるドイツが欧州を席巻し、日本がアジアの盟主となる将来を思い描き、強国同士の戦争に備えるよう説いた。血なまぐさいそんな「未来」も、海軍兵となったいとこに憧れを募らせる喜納さんには真実味があった。
しかし、大人たちが伝える虚構の戦争とはまったく異なる現実が迫っていた。
中学校に入学して3カ月もすると授業はほとんど行われなくなった。代わりに命じられたのは「軍作業」という名の肉体労働。「小禄には飛行場、垣花や上之屋では高射砲陣地が造られ、私たちが作業に当たりました」。高射砲陣地の現場を指揮した将校は「これは敵機を撃墜するための新兵器なんだ」と胸を張った。
作業中、通りがかった別の下士官に「命中率はどれくらいですか」と尋ねると、苦笑交じりに言った。「空に飛んでるトンボに石を投げてごらん。当たると思うかい」。小さな疑念が軍国少年の中に芽生えていた。
(安里洋輔)