「勉強はほぼできなかった」学ぶ機会ないまま卒業 <奪われた日・再生への願い―戦後75年県民の足跡23喜納政保さん㊦>


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食料配給所の周囲に集まり登録を待つ地元民=1945年8月、名護市久志(沖縄県公文書館所蔵)

 「最初は『演習か』と思いましたよ」

 1944年10月10日朝。いつものように軍作業に出掛けるため準備していた喜納政保(まさやす)さん(88)=那覇市松山=は、「ウーッ」というサイレンの音に気づいた。那覇市旭橋の自宅の屋根に上り、首里の方を仰ぎ見ると、複数の機影が視界に飛び込んできた。

 頭上を通過する1機の胴体に描かれた米国国旗を見た時、ようやく事態がのみ込めた。「すぐ階下に駆け下り『空襲だ』と叫んだ。一緒に軍作業に行くために訪ねてきていた友人とはその後、二度と会うことはなかった」

 家族で防空壕に避難したが、戦火に包まれる那覇にとどまることはできない。父親からは、家業に必要な帳簿などが入った袋を持つよう指示された。中学校の勉強道具一式は置いていかざるを得なかった。

 「そこから3日かけて北部まで避難。その後、那覇に戻って焼け野原になった町を見て初めて思った。『果たして戦争に勝てるのかな』ってね」

 学校生活は再開したが、かつての日常が戻ることはなかった。教室もなく、教科書もない。授業の代わりに行われたのは、焼け跡の掃除や軍に命じられた物資の運搬作業などだった。「いま考えると、地上戦への備えだったんだろう。かすかにあった勉強の機会は完全に失われた」と語る。

 戦況は徐々に悪化。年が明けてしばらくすると、喜納さんら中学1年の生徒に「家族と逃げろ」と軍令が下った。米軍上陸直前の45年春、喜納さんは家族と本部町に避難。ゲリラ戦での抵抗を続ける日本軍を掃討するためにやってきた米軍に追い立てられ、久志村(現在の名護市久志)の集落にたどり着いた。

 「米兵に銃剣を突きつけられながら、本部の山を下りた。久志に着いてからは身を寄せる場所がなく、村落の豚小屋を家代わりにして暮らしていた」

 戦争が終わり、勉強を再開するため、米軍政下で小学校の代わりに設置された「プライマリースクール」に行ったが、教師は喜納さんの顔を見るなり追い返した。「『中学生は駄目だ』と言われてね。しょうがないから、久辺のハイスクールに入り直したよ」

 その後も学校を転々とした。1年ほどすると廃校になったハイスクールから宜野座高校に移るよう言われ、家族で那覇に戻ると、首里高校に編入。1学期の間だけ在籍し、できたばかりの那覇高校に移った。

 「一期生として卒業したが、艦砲射撃の跡の処理とか戦後の後始末に明け暮れて、勉強はほとんどできなかった」。教師に「留年したい」と訴えたが、認められなかった。あれから75年。時代は様変わりした。

 「好きなことが言えて好きなことができる。そして、何より勉強が好きなだけできる。いい時代になったと思う」。そう言って寂しそうに笑った。

 (安里洋輔)