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創業69年の老舗はカステラ御殿? 兄弟で切り盛りする菓子店「末廣製菓」 市場の歴史と重なる歩み<まちぐゎーひと巡り 那覇の市場界隈5>


この記事を書いた人 Avatar photo 琉球新報社
現在は第一牧志公設市場の仮設市場の東向かいにある末廣製菓=那覇市松尾

 旧暦の大晦日を迎えた1月24日。仮設市場の東向かいにある「末廣製菓」には、つきたての鏡餅が並んでいた。旧正月は沖縄ならではの御願があるけれど、内地の文化を取り入れて、旧正月に鏡餅を飾る家庭もあるという。ただ、鏡餅がよく売れるのは、やはり新暦のお正月だ。

 「うちが一番忙しくなるのはね、昔は新正月だったのよ」。「末廣製菓」の2代目・下地玄旬さん(66)はそう振り返る。「復帰するまではパックの鏡餅がなかったから、すごく売れてたよ。私が高校生だった時分には、同級生を10名余りアルバイトに呼んで、交代で2時間だけ仮眠しながら餅をついてたね。今はもう、旧正月に鏡餅を作る店はほとんど残ってないと思うよ」

カステラ御殿

従業員と一緒に記念撮影する父の下地玄幸さん(中央)に抱かれる2歳ごろの玄旬さん。母のマツさん(前列左)に抱かれる弟の玄紀さんの姿もある=1955年(末廣製菓提供)

 古い写真を見せてもらうと、旧正月の鏡餅と一緒に、家族と従業員が並んでいる姿が残されていた。「末廣製菓」を創業したのは、玄旬さんの父・下地玄幸さん。15歳の頃に郷里の宮古島を離れ、かつて波の上にあった老舗菓子店「大黒屋」で修業した玄幸さんは弟の玄栄さんと一緒に、1951年、お菓子を売る露店を始めた。場所は平和通り、現在「平良カーテン」のあるあたりだ。

 「あの頃はまだ物資が少ない時代だったけど、卵と砂糖とメリケン粉を仕入れていて、人形焼きみたいなお菓子を拵(こしら)えて、それを道端で売っていた。そうやって露店で稼いだお金で、木造の工場を建てて、家族や従業員も住んでたわけ。父親が宮古だから、従業員も宮古が多かったね。うちで働いてなくても、宮古出身の人が父親を頼って那覇に出てきて、仕事が見つかるまでうちに住んでる人もいたみたいだね」

 創業したばかりの頃は、鏡餅の他にもう一つ、飛ぶように売れる商品があった。それはヂーカステラだ。

 「ヂーカステラというのは、長崎カステラとは別物で、蜂蜜や水飴は入らないわけ。ただ卵と砂糖とメリケン粉を混ぜて、型に流して焼いて、お祝い事があればピンクの色を擦り込んで作ってたのよ。それが、私が中学生の頃――だから半世紀近く前になるね――に、長崎カステラの職人さんを雇って、これがものすごく売れた。それで今の建物を作ったから、ここはカステラ御殿じゃないかと思うけどね」

兄弟で切り盛り

旧正月を前に鏡餅が並ぶ店内=那覇市松尾の末廣製菓

 沖縄の結婚披露宴は盛大に催されることもあり、引き出物のカステラは飛ぶように売れた。まだ小さい頃から、玄旬さんはよくカステラの配達を手伝っていた。父から「あなたが店を継ぎなさい」と言われて育ち、何の抵抗を感じることもなく継ぐことを決めたという。

 「本格的に手伝うようになったのは、高校を卒業してから、夜間の大学に通いながら仕事してましたよ。大学卒業と同時に内地に行って、兵庫県尼崎市の『エーデルワイス』で5年半修業しながら製菓学校にも通いました。親父の頃は和菓子が中心だったけど、クリスマスケーキは作ってたんです。味は当時としてはそれなりだったと思うけど、あの頃は洋菓子店というのはほとんどなかったから、それでも行列ができたらしいね。ただ、これからの時代は本格的な洋菓子じゃないと商売にならないだろうと、私が洋菓子を習いに行ったんです」

お菓子やケーキなどの商品が並ぶショーケース

 店を継ぐにあたり、玄旬さんは弟の玄洋さんに「一緒に店をやらないか」と声をかけた。弟は別の仕事をしていたけれど、兄の誘いを受けて東京の製菓学校に通って、和菓子職人となった。兄弟が和と洋のお菓子をそれぞれ作りながら切り盛りしてきた。

移転重ね

 創業から現在に至るまで、「末廣製菓」は何度か移転を重ねている。最初に工場を建てたのは、現在では仮設市場がある場所だった。

弟の下地玄洋さんと店を切り盛りする2代目店主の下地玄旬さん=那覇市松尾の末廣製菓

 「このあたりは何もない野原で、僕らも野球をやったり、沖縄相撲を取ったりしてたんですよ。そこにまず工場を建てたんだよね。しばらくしたら『角の店が売りに出てる』という話を耳にして、親父がいとこから借金をして買い取った。それが今、『末廣ブルース』になってるところなわけ。そうしたら、今から半世紀近く前に第一牧志公設市場を建て替えることになって、広場に仮設の市場を作るために立ち退きを命じられたのよ。それで今のこの場所に移ることになって、立派な工場を構えたわけ」
 「末廣製菓」の歩みは、公設市場の歴史とも重なり合っている。昨年の6月16日で第一牧志公設市場は一時閉場を迎え、7月1日に仮設市場がオープンした。これを機に、かつての店舗を「末廣ブルース」に貸しに出し、ガレージのようになっていた工場の1階を整理して、店舗兼喫茶スペースとしてリニューアルした。

 「前の店舗と違って、今は全面ガラス張りで、中がよく見えるでしょう。スペースも前より広くなってるから、外国人観光客の人もたくさん入ってくるようになりましたよ。前の店舗があった通りは、昔は『肉市場通り』と呼ばれていて、相当活気があったんです。でも、今はスーパーがあるからね。だから、行事のときに買いにきてくれる地元のお客さんのことも大事にしながら、観光客の方にも喜んでもらえるお店になっていけたらいいなと思ってますね」

 「末廣製菓」では、観光客に喜んでもらおうと、沖縄ぜんざいの提供も始めている。旧暦の大晦日にあたる午後、沖縄ぜんざいを食べ終えた外国人観光客が、物珍しそうに鏡餅に見入っていた。

(橋本倫史、ライター)

 はしもと・ともふみ 1982年広島県東広島市生まれ。2007年に「en-taxi」(扶桑社)に寄稿し、ライターとして活動を始める。同年にリトルマガジン「HB」を創刊。19年1月に「ドライブイン探訪」(筑摩書房)、同年5月に「市場界隈」(本の雑誌社)を出版した。


 那覇市の旧牧志公設市場界隈は、昔ながらの「まちぐゎー」の面影をとどめながら、市場の建て替えで生まれ変わりつつある。何よりも魅力は店主の人柄。ライターの橋本倫史さんが、沖縄の戦後史と重ねながら、新旧の店を訪ね歩く。

(2020年2月28日琉球新報掲載)