戦前、泡瀬(沖縄市)と与那原をつなぐ馬車軌道の中間地点だった中城村当間。リュウキュウマツが並び、サトウキビを乗せた馬車が何度も往復した。馬の休憩場所にもなっていたため、鍛冶屋やそば屋、理髪店が軒を連ね、にぎわいがあった。
だが、穏やかな暮らしは戦争の足音が徐々に迫ると一変する。1944年10月10日の「10・10空襲」以降、当間の住民らは九州への疎開や沖縄本島南部への避難を開始し、集落に残る人はほとんどいなかった。一方、45年4月、本島に上陸した米軍の一部は中城方面へ侵攻。“無人”となった集落を壊した後「小飛行場」を造成し、前線への偵察や物資の拠点とした。
「ああ、確かに飛行場はここから延びていたよ」。2月19日、「小飛行場」があった場所を訪ねた比嘉英信さん(85)が語ると、同学年の仲村喜政さん(84)は、戦中に撮影された写真を見ながら何度かうなずいた。比嘉さんは学童疎開、仲村さんは南部へと避難していたため、戦時中の体験は異なる。だが、戦時中に人知れず造られた米軍の「小飛行場」の姿を今も覚えている。
学童疎開をしていた比嘉さんの住居や畑は、小飛行場用地として接収されていた。「金網の破れた所から芋などの食べ物を取りに、自分の家があった場所へ何度か行った。集落があった場所の名残は何もなかった」と振り返る。沖縄戦で跡形もなくなってしまった故郷。戦後、疎開先から戻った際、変わらずに残っていたのは同村久場にある丘陵「台グスク」だけだったことを今も思い出す。
仲村さんは戦時中、南部へ家族と逃げ、最後は糸満市摩文仁で米軍に捕らわれた。避難の際は壕に入れず、モクマオウの木の下で過ごしたこともあった。自身は生き延びたが、兄と弟ら3人が艦砲を受けて亡くなる場面も目の当たりにした。「戦争に負けて何もかもなくなったなという気持ちしかなかったよ。子どもだったからね」。当時を思い出しながらぽつりと語った。
小飛行場は沖縄戦から数年後には撤去された。当間の住民らは戦前の面影を失った集落を建て直すため、必死で土地を開墾した。2人も学校に通いながら田畑を耕した。生活を取り戻すにはさらに数年の時間がかかったという。
小飛行場の跡地は現在、田畑が広がる静かな農地へと戻っている。近くには中城村役場の新庁舎も完成する予定だ。当間集落の復興を実現させたのは、戦火を生き延びた住民らの力強い歩みだった。
(池田哲平)