床面から高さ280センチメートルに設置されたバーでダイナミックな技やその美しさを競う、体操の鉄棒競技。昨年全日本種目別選手権で初優勝した小浜廣仁(26)=宮里中―興南高―九州共立大出―TEAMえひめ=は急成長株の一人だ。「日本代表に入ってメダルを獲りたい」。幼少期になんとなく抱いていた夢は今、具体的な形となってきた。新たな鉄棒のエースは、その瞬間を胸に宙を舞う。
■目を見張る安定性
小学3年から本格的に始めた体操は非日常の連続だった。「ひねったり空中で回転したりする技を見るのが面白かった」と沖縄市のニライスポーツクラブに通い、めきめきと頭角を現す。宮里中2、3年の九州中学総体で団体連覇し、当時県内で強豪校だった興南に進学。1年の全九州選手権で種目別床を優勝すると、3年の九州高校総体は全6種目トップで個人総合優勝を飾った。当時、興南の監督で、現在は県体操協会の知念義雄会長は「今まで指導してきた子で種目別や個人総合優勝はいるが全種目制覇はなかなかいない」と類いまれな才能を認める。
小浜のすごさは「安定性と重心の置き方にある」(知念)。鉄棒は離れ業が多い分、落下の危険性もはらむ。手を離すタイミングや空中でのポイントが少しでもずれると失点につながりかねない。だが、幼少期からトランポリンで鍛えた空中のバランス感覚や、床が得意だったこともあり重心移動や着地は目を見張るものがあった。当時の小浜は「誰も彼には勝てない」(知念)と九州で敵無しだった。
■つかんだ自信
活躍を胸に進んだ九州共立大は、はやる気持ちとは裏腹に日の目を見ることはなかった。代表入りできる実力があると前評判がありながら、周囲の名だたる選手を見るといつからか「自分にできるはずがない」と消極的な気持ちが湧き、思うような演技ができず伸び悩んだ。そんな時、大学に毎春合宿に来る新田高校(愛媛県)の白石孝太監督から、17年の愛媛国体で優勝を目指すための「スポーツ専門員」に誘われ、活動拠点を愛媛へ移した。そこで同じく専門員で代表入り経験もあった、出口諒財選手からの指導が小浜を大きく変えることになった。
「練習や本番までの気持ちの運び方を教えてもらった」。常に本番を意識し、練習から高いプレッシャーをかけて一本一本に臨んだ。何度も積み重ねて体に覚えさせ、本番形式の練習で「全ての技を上手く通せると自信につながった」と本番でも周囲を意識せず挑めるようになった。そして臨んだ愛媛国体では、開催県のメンバーで日本一に上りつめ、より一層の手応えをつかんだ。
さらに、小学校から共に汗を流した同士でライバル、安里圭亮が同年7月の全日本種目別選手権で世界選手権代表入りを決め小浜の闘志をたきつけた。安里の活躍は「うれしかったが先に行かれたと悔しい気持ちもあった」とますます練習に精を出す。
安里に遅れること2年後の19年6月、全日本種目別選手権で予選を8位で初めて通過。「8位だったので守るものは何もなかった。狙えるところまで狙う」。小浜が持つ最高難度Gのカッシーナから屈伸コバチなど離れ技や連続技を繰り出すと14・766点で大会初優勝し、あこがれの代表入りも決めた。
「日の丸を背負っていたので優勝を狙う」と挑んだ、同年9月の全日本シニア選手権は全日本と同じ演技構成で臨み、見事2大会連続の優勝を遂げ名実ともに”鉄棒スペシャリスト”となった。
■夢の先
16年のリオデジャネイロ五輪は、内村航平を筆頭に日本が3大会ぶりに男子団体で金メダルに輝き“体操王国”復活をみせた。2連覇への期待も大きい東京五輪の代表選考レースは熾烈(しれつ)を極める。男子団体での出場を目指し、昨年から代表合宿に参加する小浜も「個々が身を削り体操と真剣に向き合うぴりぴりとした雰囲気」と重圧や緊張感を肌で感じている。
7月下旬の五輪本番までに、3月のカタールワールドカップや4月の全日本個人総合選手権、5月のNHK杯に6月の全日本種目別選手権と正念場を迎える。いずれも予選から代表選考資料になるため気が抜けない。鉄棒はEスコア(実施点)、Dスコア(演技価値点)の向上はもちろんだが、団体の代表には鉄棒以外の全種目で14点台以上を出すことも共に求められる。小浜も全種目でD難度以上を目指し、技に磨きをかけており鍛錬に余念はない。
「周囲の応援があるから頑張らないと、と奮い立つ。それに応えたい」。地元・沖縄や愛媛県の支援者から届く声援を力に変えてまい進する。目標を一つずつかなえてきた今、東京五輪という夢はより鮮明になってきた。
(敬称略)
(上江洲真梨子)