兵士に懐いた子どもたちは…違和感が拒否感に変わった出来事<奪われた日・再生への願い―戦後75年県民の足跡㉕垣花豊順さん㊤>


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戦争で「学校が嫌になった」と語る垣花豊順さん=5日、那覇市内

 宮古島にある城辺村保良出身の垣花豊順さん(86)=那覇市=は国民学校に通っていた頃に沖縄戦を経験した。「4、5年になると学校が嫌になった」。学校で教えられた戦争と実際の戦争はあまりに異なり、少年の胸にとげとなって残った。

 1933年7月、恵與さんとしずさんの長男として保良で生まれた垣花さん。地元の福嶺国民学校では「軍人は素晴らしい」と軍国教育をたたき込まれ、軍歌も歌った。「日本の兵隊なぜ強い。日の丸弁当いただくからよ」。当時、梅干しなんて見たことも無かった。そんなものを食べられる軍人はどんな存在か。思いを巡らせていた。

 41年12月8日、日本がハワイの真珠湾を奇襲、太平洋戦争が始まった。その情報は宮古島にもその日に伝わり、福嶺国民学校では児童が集められ訓話や避難訓練が行われた。翌42年2月には日本軍がシンガポールを占領。同校にも“勝利”を祝うゴムまりが贈られるなど、戦果に沸いた。遊び道具なども豊富ではない時代、垣花さんもゴムまりで遊んだことを今もはっきりと覚えている。

 宮古島では43年ごろから日本軍が駐留を進め、44年からは米軍の空襲もあった。保良には50人ほどの部隊が配置され、陣地を構築していた。垣花さんは隊長に気に入られ、部屋の掃除など小間使いをさせられていた。

 「食事の残り、吸い殻を恵んでほしい」。垣花さんは耳を疑った。若い兵士は隊長が吸い残したたばこを求めてきた。渡すと深々と頭を下げてきた。学校で教えられた軍人のイメージとは違っていた。

 陣地を作るために兵隊が集められた時もそうだった。足踏み、敬礼の仕方が悪いと難癖を付けて上官が若い兵士をぶん殴っていた。荷車を引く兵士はやせ細り、掛け声は小さかった。米軍の空襲があると、米軍機に向かって銃を撃つ兵士がいた。「日本兵は腕がいいから操縦士を狙うんだ」。垣花さんは子どもながら信じられなかった。

 45年5月頃、「一番の悲劇が起きた」。集落の西にある壕に兵隊が荷車で爆薬を運んでいた。兵士たちに懐いていた子どもたちは後を追っかけていた。「ドーン」。米軍の弾が爆薬に命中し、1歳と12歳の女の子の命を奪った。垣花さんの中にあった戦争への違和感は拒否感に変わっていた。

(仲村良太)