城辺村保良出身の垣花豊順さん(86)=那覇市=は宮古島で終戦を迎え、両親と姉の家族全員が無事だった。沖縄戦のさなかに芽生えた戦争への拒否感は次第に強くなり、平和への思いをかみしめるようになった。
終戦後、近衛兵として仕えていた父の恵與さんは宮古に戻ってきたが28歳で亡くなり、母と姉の3人で生活することになった。宮古高校を卒業すると、人材不足もあったことから母校の福嶺小学校で6カ月だけ教員を務めた。
その後は琉球大で法律を学んだ。米軍統治下の1957年から検察事務官、検察官を務めた。65年からは米国留学しミシガン大で法学を研究した。帰国後、いったんは検察官に復帰したが研究者の道を選び、琉球大で長く勤めた。退職後も教壇に立ち続けたが、10年ほど前からは沖縄戦の継承に力を入れている。
「皆さんの平和への思いを将来に届けよう」。2010年4月1日、米軍上陸地の一つ、読谷村から始まった沖縄戦を知るピースウオークの出発式で、実行委員長の垣花さんは参加者にこう語り掛けた。チビチリガマや嘉手納町の「安保の見える丘」、激戦地となった糸満市まで4日間で約70キロを歩いた。
ピースウオークの目的は戦跡などを巡り沖縄戦の実相、現状を知るためだ。その理念を胸に、垣花さんは首里城の地下にある日本軍の第32軍司令部壕の保存を求める会を立ち上げた。
「最後の仕事になるはず」。人々の記憶から薄れようとしている沖縄戦の史実を継承しようと始めた新たな取り組み。
現在86歳。会を立ち上げ、続けていけるか体力面に不安もあった。試しに名護市辺野古まで歩き「3日間野宿して93キロ歩けたから大丈夫」と自信を付けた。3月から有識者のメンバーを集めて、県などへの提言に向けて話し合いを始めた。
壕は日本軍が大本営直轄の沖縄守備隊として創設した第32軍の司令部として1944年12月に構築が始まった。地下に司令部があったために首里城は米軍の標的となり破壊された。
昨年10月に焼失した首里城には多くの人々の視線が注がれる一方、司令部壕の存在を知らない人も多い。ただ、壕内には今も犠牲になった人たちの遺骨が何千もあるといわれている。
「事実を知らせないといけない。死んだ人たちの声を生きている人たちに伝えるためにも」。垣花さんは新たな目標に向け再び歩み始めた。
(仲村良太)