太平洋戦争末期から米国内部では、沖縄の事実上の併合を主張する軍部と、日本への返還を求める国務省との対立が深まっていた。その中で、信託統治制度を利用する方法が模索された。通常の信託統治であれば信託統治理事会の管轄下となる。施政権者は信託統治理事会への報告の提出、住民などからの請願審査、定期視察を受けるなどの義務を果たさなければならず、米国軍部が求める沖縄の「排他的で戦略的な支配」とは両立しなかった。
米国内では沖縄を信託統治地域とし、その中に戦略地区を置く構想も出された。同戦略地区になれば国連の介入を拒否できるが、国連安全保障理事会の承認が必要となる。米ソ冷戦が激化する中で、ソ連が米国の提案について拒否権を行使することは明白だった。
米国は沖縄を信託統治にもできないし、日本への直ちの返還もできないというジレンマに直面。この状況下で“苦肉の策”として講和条約3条―信託統治を提案し、それが可決されるまで全権を行使する、という巧みな“レトリック”を装った条文を生み出した。これにより、米国は講和条約3条を根拠に、米国は沖縄を共産圏への防波堤として利用し続けた。
琉球大の波平恒男教授は「信託統治案は日本の主権から沖縄を分離することに重点があった。だが、対日講和が日米安保条約と一体化する中で、対ソ配慮より日本や西側諸国との調整が重要になった。結局、日本の潜在主権を認め、信託統治への移行の可能性も否定せず、米国統治の継続を認めるという奇妙な妥協案に落ち着いた」と述べる。