未明の空、真っ赤に染める 東京大空襲から75年 体験者の大城昇一さん 焼け跡の遺体を直視できず…生々しい記憶いまも


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東京大空襲の体験を語る大城昇一さん=3日、名護市大北の自宅

 【名護】約10万人が亡くなったとされる1945年3月10日の東京大空襲から75年。当時13歳だった大城昇一さん(88)=名護市大北=は現在の東京都江戸川区で暮らしていた。無差別大空襲を経験し、横たわる遺体を目撃した。「空が赤く染まった」。東京から疎開した先の北海道で敗戦の日を迎え、両親の故郷沖縄に引き揚げた。

 父・元一さん、母・春さんは現在の名護市城出身。2人は東京で出会って結婚し、長男の大城さんが32年に生まれた。45年3月時点で5人きょうだいで、家族7人が小岩で生活していた。大城さんは西小岩国民小学校を経て、神田神保町にあった工業の専門校に進んだ。

 10日未明、300機以上の米軍B29爆撃機が火災を発生させる焼夷(しょうい)弾を投下した。下町を中心に、東京の約4割、約40平方キロが焼失した。父は天神川(別名・横十間川)沿いの染工場で働き、宿直勤務の際に大空襲が始まった。一夜明けて顔も体も、すすで真っ黒になって帰ってきた。幸いにも大城さんの自宅や家族に被害はなかった。「東京の空が赤く染まっていた」

 翌日、大城さんが都心向けに出掛けてみると、天神川の橋や船の上に真っ黒になった複数の遺体を見掛けた。恐怖が勝り、直視できなかった。学校は全焼し、影も形もなかった。

 日時は特定できないが、反撃されたB29が火を噴き上げて小岩上空を通過し、墜落する瞬間を目撃した。「落ちる、落ちる」と母は叫んだ。墜落時の衝撃を少しでも弱めるためか、B29は墜落直前まで爆弾を落としていた。翌日、墜落機を見に行った。

 東京への最初の空襲は42年4月18日。小康状態を経て44年11月24日からB29による爆撃が始まり、最も被害が大きかったのが3月10日だった。その後も空襲は続いた。「日本軍の反撃は日ごと徐々に弱くなった」

 政府は被災者救援と食料増産を目的とした計画「拓北農兵隊」を進め、東京で働く場を失った父はこれに応募した。45年8月、家族で現在の北海道空知郡栗沢町に移った。農家の畑作業を手伝い、報酬として食料を得る日々だった。8月15日から2日後、敗戦を知った。「敗戦と聞きがっかりはしなかった。物心ついた時から日本はずっと戦争をしていた。新時代が来る。そんな期待があった」。翌年9月、家族は沖縄へ引き揚げた。

 戦後、大城さんは警察官として定年まで働き、沖縄を見詰めることになった。「75年前と比べれば、今は戦争のない平和な時代だろう。努力を重ね、保ち続けるしかない」
 (島袋貞治)