国内で「ビッグジャンプ」とされてきた8メートル台は、もはや大台とは言えないのかもしれない。直近の3大会は五輪に代表選手を送り込むことすらできず、長い低迷期が続いた日本の男子走り幅跳び界だが、昨年は気鋭の選手3人が東京五輪の参加標準記録である8メートル22を突破し、隔世の感すらある。その1人に名を連ねるのが身長168センチの小柄なジャンパー、津波響樹(22)=伊良波中―那覇西高―東洋大4年=だ。非凡な瞬発力とばねを生かして一気に加速する助走スピードを武器に、東京の空へ駆け上がる。
■かけっこ自慢
小学1年の時、名指導者で知られる祖父の国吉真豊(82)が立ち上げた陸上クラブ「豊見城JRC」で競技を始めた。当時から瞬発力に優れ「飛び出しが速くて、審判に『フライングじゃないか』と勘違いさせることもあった」(国吉)という程のかけっこ自慢だった。母・睦子(50)が走り幅跳びの選手だったこともあり、小学生の頃は100メートルと走り幅跳びの両方に出場し、県の記録会などで優勝を経験した。
中学では「部活動に憧れた」と友人がいたハンドボール部に入ったが、陸上への情熱は冷めず、名門・那覇西高の陸上部へ。県総体などでは1校から100メートルに出場できる選手に人数制限があったため、走り幅跳びへの専念を決めた。
爆発的な瞬発力は小柄な体にひずみを生み、疲労骨折など度重なるけがに苦しんだ。それでも跳躍の練習は週に1~2回ほどにし、スプリント力の強化に注力して推進力を増したことで、高校3年の全国総体で7メートル35を飛び6位に入って頭角を現した。那覇西高の監督だった仲宗根敏晃(52)は「ジャンプなど神経系の能力はずばぬけていた」と振り返る。
■100メートル「10秒2~3」
大学は、日本人で初めて10秒台の壁を突破した2学年先輩の桐生祥秀の母校で、短距離選手の育成に定評のある東洋大に進学した。「後ろさばき」の傾向があった走り方をしっかりと前で地面を捉える「前さばき」に矯正するなど、強みである俊足にさらに磨きをかけた。結果、大学2年時に初めて公式戦で8メートル台を突破。「自分でもここまで飛べるんだ」と自信をまとい、昨年5月の関東学生対校選手権では追い風参考ながら6回中5回で8メートル台を飛び、安定感を増した。
迎えた昨年8月のナイトゲームズ・イン福井。1回目で五輪標準記録にあと1センチに迫る8メートル21を飛ぶと、2回目で8メートル23を記録。一躍、東京五輪の代表、メダル候補に躍り出た。同大会では、津波の前に橋岡優輝(日大)が1回目で27年ぶりに日本記録を7センチ上回る8メートル32を飛び、城山正太郎(ゼンリン)が3回目で8メートル40を飛んで再び更新した。城山は試合後、津波と橋岡に「お前たちがいなかったら、これほど跳べなかった」と感謝の言葉を伝えたという。ライバルの存在が互いを高め合っている。
高身長で手足の長い選手が優位とされる走り幅跳び。橋岡は183センチ、城山も178センチあり、168センチの津波はひときわ小柄だが、快足で補い、肩を並べる。公認の100メートル自己ベストは大学1年時に記録した10秒47だが、今では「10秒2~3は出る」と言い切る。特に前半の加速力は100メートル選手を含めても国内トップレベルにあり、日本歴代2位の9秒98の記録を持つ桐生とも「調子がいい時は60メートルくらいまで前に出るか並んでいるかで、競い合えていた」という。
■鍵は踏み切り
4年前のリオデジャネイロ五輪で表彰台に立った選手の記録は、金メダリストから順に8メートル38、8メートル37、8メートル29。現在の助走スピードであれば「8メートル40~50は絶対に出る」とメダルを射程圏内に捉える。鍵を握るのは、いかに踏み切りラインでブレーキをかけず、滑らかな重心移動で並外れたスピードをそのまま前への推進力に昇華できるかに懸かっている。
感覚を重視する津波は、理想の踏み切りについて「前にポーンと抜ける感じ」と説明する。今は2月中旬から行うオーストラリアでの大学合宿で反復練習を続けており「五輪に向けいい感じで仕上がってきている」と好感触を得ているようだ。6月の日本選手権(大阪)で3位以内に入ることが東京五輪代表の内定を勝ち取る条件となる。
昨年9月に初出場した世界選手権は緊張感にのまれ、不本意な7メートル72で予選敗退したが「貴重な経験ができた。東京五輪に生かせればいい」と力に変える。爽やかな笑顔が印象的な22歳だが、国内の一戦で競う精神力はだてじゃない。「入賞、メダル獲得。五輪ではいけるとこまでいく。自分の目標を果たしたい」とひたすらに前だけを見詰める。
(敬称略)
(長嶺真輝)