戦況の悪化「デマだ」 軍の教育を盲信「死ぬ思いだった」<奪われた日・再生への願い―戦後75年県民の足跡㉗宮城清助さん㊤>


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初任務で「死ぬ思いだった」と語る宮城清助さん=那覇市山下町

 国頭村与那で生まれた宮城清助さん(92)=那覇市=は沖縄戦時、本島北部の少年たちで組織された遊撃隊(護郷隊)として戦場に駆り出された。「故郷は自らの手で護(まも)る」。戦意高揚の意味が込められた護郷隊は主に同郷者で組まれた中隊を構成。スパイや謀略家を養成する陸軍中野学校出身者の指揮下、やんばるの森でゲリラ戦を展開した。

 青年学校に通っていたころ、国頭村辺土名の山の上には防空監視哨があり、米軍機を見つけては日本軍に報告していた。当初は奉仕だったが、軍の手ほどきを受け、地域ごとに数人が選ばれた。宮城さんも仕事を任された。「与那では一番年下。1日に2円くらいもらえたので、当時はうらやましがられた」。戦争に引きずり込まれていった。

 「軍服着て、革靴履いて、帽子をかぶってさっそうと歩いていた」。軍人となって故郷に帰ってきた友人の姿に憧れた。家族は両親と祖父母、7人きょうだい。宮城さんは長男だった。父親は既に召集されており「祖父も病気で思うように動けず、母と祖母は大変だったはず」と振り返る。

 1945年3月、軍に入った。朝から晩まで訓練に明け暮れ、米軍上陸前の3月23日ごろ、恩納村の安富祖小学校で入隊式を迎えた。第二護郷隊第一中隊に配属された。式の途中も上空をグラマン戦闘機が飛び交った。腰に軍刀を差したまま走り方も分からずに逃げ惑った。

 部隊の訓練が始まったが、軍服と靴は大きくてぶかぶか。上官からは「軍服に体を合わせなさい」とたたき込まれた。銃剣や機銃の扱い、突きの練習を繰り返した。ゲリラ部隊のため、ダイナマイトなど爆薬の使い方も教わった。

 「一人一人が軍隊の鋳型にはめられた」

 軍隊教育は心境も変化させた。薪(まき)を取りに行くと「フィリピンが壊滅し、日本兵は捕虜になっている」と書かれた紙が空から落ちてきた。だが、上官から「米軍が『マコト』という新聞をまいているが、デマだ」と言われていた。その言葉を盲信し、戦況悪化も信じなかった。

 迎えた最初の任務は恩納村仲泊で橋の爆破だった。爆薬を設置するだけの簡単な作業と思われた。ただ、宮城さんは小屋づくりの時にくぎを踏んでいた。足は化膿(かのう)し、歩くだけで激痛が走った。橋のたもとになんとかたどり着くと爆発した。「死ぬ思いだった」。多難な前途の始まりだった。

(仲村良太)