「無傷なのは自分くらい」 同郷の仲間 無残な死<奪われた日・再生への願い―戦後75年県民の足跡㉘宮城清助さん㊦>


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第二護郷隊之碑前で、戦争中に亡くなった仲間への思いを語る宮城清助さん=恩納村安富祖

 第二護郷隊第一中隊に配属され、初任務で死ぬ思いをした宮城清助さん(92)=国頭村与那出身、那覇市=は1945年4月、沖縄本島に上陸した米軍を相手に恩納岳でゲリラ戦を展開した。ただ力の差は歴然。多くの同郷の仲間は無残に死に、深い傷を負った。

 上陸した米軍は宜野湾以南に後退していた第32軍への攻撃と同時に、北部では掃討作戦や飛行場建設を開始した。宮城さんら第一中隊は恩納岳に陣地を造り、米軍を待ち構え、夜は敵陣に攻撃を仕掛けた。

 4月12日ごろ、部隊が米軍の陣地に夜襲へ向かった。宮城さんはその中に選ばれなかったが、機関銃手の「比嘉君」がお尻を斬られて帰ってきた。聞いた話では、仲間が地雷を踏んで部隊はばらばらになり、気配を感じた隊長が合言葉をかけたが応じなかったため、斬られてしまったということだった。

 迫る米軍。宮城さんらも陣地を後退させながらゲリラ戦を続けた。ある朝、岩波寿隊長の世話当番をしていた宮城さんは川で米をといでいた。「パン、パン」。銃声が響いた。200人くらいの米兵が近づいてきていて、休んでいた隊員らは飛び起きていた。

 「俺に続け」。岩波隊長が軍刀を抜いて先頭に立って米軍に向かった。宮城さんも攻撃に加わり、米軍と撃ち合いになった。米軍は多くの犠牲者を出し、どんどん下がっていった。午後になると金武方面から米軍の戦車十数台が来て一斉に砲撃し、犠牲者を回収していった。米軍は翌日も戦車で攻撃し、2人が即死した。遺体は埋めたがどうなったかは分からない。

 事故死する仲間もいた。朝ご飯を食べていると「ボーン」という爆発音と叫び声が聞こえた。声の方向に行くと「新城浩」が誤って手りゅう弾を爆発させていた。内臓が飛び出し、10分ほどもがき「アンマー」と叫んで息絶えた。

 掃討作戦を繰り広げる米軍の後ろに付き、米兵が残した兵糧を食べて腹を満たし、何カ月もかけて東村有銘にたどり着いた。戦況も厳しくなっていた。「召集がある時はすぐに集まれ。それまでは家族と生活しておけ」。隊長の訓示で銃を置いた。

 宮城さんは「敗戦を受け入れられなかった」。だが、与那の共同店に着くと米軍が軍政を敷くことを伝えるニミッツ布告が張り出され、米兵が悠々とパンに肉を挟んで食べていた。言葉を失った。敗戦の意味がずしりとのし掛かった。

 戦後、同じ部隊にいた仲間と再会することがあった。だが大きな傷を負い、多くを語らない者も多い。宮城さんもかつては慰霊祭にも足が向かなかったが、最近少しずつ当時の記憶を語り始めている。「無傷なのは自分くらいだ」。申し訳なさそうにつぶやいた。
 (仲村良太)