狙いはメダル 出走準備 けが越え さらに進化 自転車ロードレーサー新城幸也〈憧憬の舞台へ〉⑳


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ナショナルチームで合宿中の新城幸也=2019年1月27日、恩納村の沖縄かりゆしビーチリゾート・オーシャンスパ

 強靱な下半身と体幹で繰り出すペダリングと負けん気の強さでどんな難所も乗り越える。日本の自転車ロードレースで世界の頂点に最も近い“サムライロードレーサー”は、3大会連続の五輪出場で表彰台を見据えている。ロードレースの本場、欧州を拠点に活躍する新城幸也(35)=八重山高出―バーレーン・マクラーレン=だ。自国での五輪開催に並々ならぬ思いを抱き、メダル獲得へ向け東京を駆け抜ける。

■仏で才能開花

 父・貞美(65)の影響で幼少期から自転車に親しんできた新城だが、本格的に競技を始めたのは八重山高3年の頃。父の元を訪れていた当時フランスで活躍していたトッププロ、福島晋一、康司兄弟との出会いからだった。高校までのめり込んでいたハンドボールを引退し、父に誘われ練習に参加した。坂道の途中、トップを走る福島兄弟の後方に食らいついた新城の走りが周囲を驚かせた。福島らに「一緒にフランスでロードレースやらないか」と誘われ、2003年4月に単身渡仏を決めた。

 最初は「(大学受験)勉強が嫌で、ロードレースのほうが面白そう」という気持ちだった。だが、プロとの練習を重ね、毎週のように大会に出る度に気持ちに変化が生まれた。「徐々に成績が上がってくると、プロとして生活するのも楽しいかもと思えた」

 夏に一時帰国した新城は、父に「厳しい競技だけどやりがいがある。4年でプロになれなかったら考えるから続けさせてほしい」と頼み込んだ。当時のことを父は「渡仏して3年でチーム契約までこぎ着けた。負けず嫌いで同じ失敗を二度としない努力家だ。フランスでその才能を開花させた」と自慢の息子を照れくさそうに語る。

■日本人最多の偉業

 本場フランスでレース漬けの毎日を送り、頭角をめきめきと現す。05年に初めてU23代表入りを果たすと、06年に代表として初の世界選手権に挑み、同カテゴリーで日本史上最高の14位でゴールした。09年には夢だった世界最高峰のツール・ド・フランスに初参加。別府史之と共に邦人初の完走を成し遂げ、日本ロードレース界に名を刻んだ。12、16年の同大会は区間敢闘賞を受賞し、邦人で初めてグランツールの表彰台に上った。17年から現在所属するバーレーン・マクラーレンに移籍した。

 これまでにツール・ド・フランスを7度、ジロ・デ・イタリアを2度、ブエルタ・ア・エスパーニャを3度と、世界3大ツール(グランツール)を日本人最多12度の完走を果たし、いまだにその記録に挑み続ける。

 数え切れない記録を収めてきた新城だが、その競技人生はけがとの闘いでもあった。最高時速100キロを超えるスピードで疾走するロードレースは、危険と隣り合わせだ。五輪選考が始まった19年の3月には、タイでの合宿中に左肘と骨盤を骨折し約3カ月間リハビリを余儀なくされた。昨季はマイナスからのスタートだったが「起きたことは仕方ない、いかに早くリカバリーするか。けがをする前よりさらに進化した走りができたら周囲を驚かせられる」と這い上がってきた。負傷中に優しく声をかけ支援してくれたサポーターの思いも感じている。「それまでは自分のために走っていたが、彼らのためにも早く復帰したい」

 その思いは同年6月の全日本選手権2位という結果になって表れ、10月のツール・ド・フランスさいたまクリテリウムでは邦人初優勝。言葉通り“進化”を成し遂げた。

■東京に懸ける

 初出場した12年のロンドン五輪は「八重山勢初の五輪選手になりたい」との志が新城を五輪へ導いた。一方、県勢最多3度目を狙う東京五輪は「もっと日本中にロードレースの魅力を知ってほしい」との思いがかき立てる。ことし1月にオーストラリアで行われたUCI(国際自転車競技連合)ワールドツアー開幕戦を個人総合29位で終え、五輪代表選考ランキング首位に躍り出ており、五輪まであと一歩のところまで近づいた。「自国でメダルを取って注目してもらうまたとないチャンス。現役で活躍できる間に表彰台に登り、多くの人にロードレースを広めたい」

 五輪本番の直前にはツール・ド・フランスもあるが、12度のグランツール完走を誇る新城にとって「ツール完走後が一番調子が良い」と最高の状態で五輪のスタートラインに立つ姿を思い描く。石垣島から世界で羽ばたくサムライレーサー。きょうも世界のどこかでペダルをこぎ続けている。

(敬称略)
(上江洲真梨子)