「新しい時代を作りたい」鍛錬の先に県勢初の金メダル見据える 男子空手形・喜友名諒〈憧憬の舞台へ〉⑲


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 鬼気迫るという言葉が古びれず、的を射ている。劉衛流龍鳳会の喜友名諒(29)の空手形の演武だ。東京五輪の日本勢で最も金メダルに近いと目されている。世界で常勝の絶対王者だが、キャリアは決して順風満帆ではなかった。「常に目標を持ってやってきた」と頂きを目指し、ひたすらに続けた鍛錬の先にに今がある。東京五輪へ向けて「空手発祥の歴史が沖縄にはある。沖縄出身の自分が新しい歴史をつくりたい」と県勢初の金メダルへ死角はない。

■あこがれ

喜友名諒

 5歳で空手を始めた。転機は2003年の沖縄東中1年生の時。道場の先輩が全国中学校大会で優勝する瞬間に居合わせた。「来年は自分が日本一になる。同じ稽古をしているからできる」。初めて大きな目標を打ち立てた。週2回の稽古日以外にも文字通り空手漬けの日々を送り、中学2年生で全国制覇を果たした。

 この優勝がさらなる目標につながった。全国制覇を祝う場で、劉衛流の豊見城あずさらが世界大会で優勝した際の演武が上映された。「自分もあんなふうにもっと上の世界に行きたい」とあこがれを抱いた。

 中学3年生で劉衛流の道場を訪ね、清水ら世界を制した空手家たちの気迫に衝撃を受けた。「命がけで空手をしていた。練習なのに熱を感じるようで、全てが刺激的だった」。入門を申し出たが師匠の佐久本嗣男(72)は「本当にやる気があるのか。365日の練習ができるなら付いてこい」と条件を突きつけた。すでに毎日のようにこなす練習で自信があった。「できます」と即答。劉衛流の道場に近い興南高に進学し、沖縄市の自宅から通った。

■積み重ねた先に

アーナンダイの練習をする喜友名諒=1月、那覇市安里の佐久本空手アカデミー(喜瀨守昭撮影)

 高校時代は全国優勝はなかったが、基礎を培う重要な時期となった。「先輩の一挙手一挙動をまねし」て、稽古以外にもウエイトトレーニングなどに励んだ。全国で勝てない悔しさはあったが「高校で終わるつもりは全くない」と気にせず、「世界を目指す」というイメージを明確に描いていた。

 沖縄国際大2年でナショナルチームに選ばれるが、国際大会に出場するメンバーに入るにはさらに時間がかかった。この時期を劉衛流の特徴を体現する足裁きなどの習得に費やす。「人とは違う技の使い方ができるようになっていた」という。7年ぶりに全国優勝を果たした大学3年時の全日本学生選手権。準決勝と決勝で用いた劉衛流の形には「観客に沖縄の形を見せる」という特に強い気持ちで臨んだ。決勝トーナメントを5―0で圧倒しての栄冠だった。

 2012年の大学4年生で初めて日本代表として国際大会に出場を果たすと、同年のプレミアリーグトルコ大会で初めて世界一になった。しかし、同年の世界選手権は惜しくも3位。これ以降も優勝できない時期が続き、壁にぶつかった。

 この時期には形の細部に研究を重ねた。餌を狙う肉食獣の視線を参考に、形の目の送り方などに独自の工夫を取り入れる。2014年の世界選手権に「勝たないと自分は終わりだ」との覚悟で挑み、個人形で優勝。18年2月のプレミアリーグドバイで準優勝だった以外は常勝街道を突き進み、東京五輪出場を確定させた。

■求道者

 稽古中は「一瞬の気の緩みは死を意味すると思え」という佐久本の言葉を常に心にとどめている。「毎回全く同じ形はできない。いいときのイメージを崩さないようにしている」と自らの身体感覚と向き合ってきた。体重を細かに増減させ、動きの変化を確かめるなど、微細な感覚の違いに神経を研ぎ澄ます。形についてひらめきがあれば、道ばたでも動きを確かめずにはいられない。

 喜友名の成長には佐久本が「3兄弟」と呼ぶ金城新、上村拓也の存在も大きい。1学年下の2人は喜友名と同じく中学時代に劉衛流に入門。「仲間の存在が力になってきた」と切磋琢磨(せっさたくま)してきた。

 大学3年生で3人で組んで初めて団体形で世界大会に出場し、翌年の4年生時のプレミアトルコ大会で優勝。しかし、当時は世界大会で勝っても、国内で負けることが続いた。2014年の世界選手権も団体の出場は逃した。佐久本の「勝つまでやるぞ。絶対諦めるな」という号令の下に3人でひたすら稽古を続け、2016年の世界選手権で優勝を果たす。「この目標のためにずっとやってきていた」(喜友名)と3人は「最もうれしかった優勝」に挙げる。

 最大の目標である五輪開幕まで4カ月となり「(佐久本)先生との稽古が一番大事になる。一日一日を大切にしたい」と隙はない。「金メダルを取って子どもたちに努力すればできる姿を見せる。次世代の子どもたちに夢を与える」。五輪の頂きへ至る道程を愚直に歩み続ける。

(敬称略)
(古川峻)