その日、那覇市の空は雲一つない晴天だった。
1945年3月。山田和子さん(91)=那覇市=は母と弟、妹とともに那覇港に向かった。家族で疎開船に乗るためだった。
その約半年前、那覇の街は10・10空襲に遭い、焦土と化した。市久茂地にあった自宅は焼け、一家は真和志村(当時)の農家の納屋に身を寄せていた。
県立第二高等女学校の4年生だった山田さんは、迫る戦火から逃れるため、何度も疎開船への乗船を試みていたが、戦況の悪化で住民の疎開ははかばかしくなかった。「こんなにいい天気なら船は出るだろう」。そんな期待を抱いて波止場に向かったが、そこにいた兵士は理由も告げずに「今日は船は出ない」と一言、告げるだけだった。
意気消沈して港から引き揚げる道すがら、空からパラパラパラという乾いた音が聞こえた。
機銃掃射の音だった。
米軍機はすぐそこまで迫っていた。必死に走って家族で防空壕に逃げ込んだ。そこは日本軍の通信部隊が占拠する壕だった。兵士らは渋々親子を入れたものの、銃撃音が収まると早々と外に出された。
「このままやんばるに行くしかない」。仮住まいの納屋に戻った親子は、県外への避難を諦め、県内の疎開地として大宜味村に向かうことにした。夕闇が迫る中、納屋を出ると、見覚えのある2人がこちらに歩いてくるのが見えた。
女学校の同級生だった。「2人は疎開先の名護から戻る途中でした。『これから東風平の部隊に行く』と言っていました」
白梅学徒隊として、傷病兵の看護に当たろうと南部の野戦病院に向かう2人。「私も後から行く」と声を掛け、再会を誓った。
その時、同級生の1人が名刺大の大きさの生地を差し出した。髪と爪を縫い付けた形見の品だった。
「空襲の前に、『交換しようね』と約束していたんです。彼女は約束を覚えていてくれた。『準備せずにごめんね』と謝ることしかできませんでした」
結局、それが彼女と交わした最後の言葉となった。肌身離さず身に着けていた級友の思いが詰まった形見は、戦後、級友の両親に引き継いだ。
「『あの子の物が何も残っていなかったから』と、ご両親がとても喜んでくれました」。多くの級友を失い、「自分だけが生き延びてしまった」という罪悪感にさいなまれた山田さんにとって、その笑顔は救いになった。
(安里洋輔)