缶詰くれた若い将校 「きっと特攻兵だよ」<奪われた日・再生への願い―戦後75年県民の足跡㉚山田和子さん㊦>


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上陸のために読谷村沖に集結した米軍の艦船(沖縄県公文書館所蔵)

 真っ暗な夜道を、ひたすら北に向かって進んだ。

 米軍の本島上陸が迫っていた1945年3月。県立第二高等女学校の4年生だった山田和子さん(91)=那覇市=は、家族でやんばるを目指した。連日のように米軍機の機銃掃射や、沖合の米艦船からの艦砲射撃が繰り返されていた。山田さんらは標的にされないよう昼間は各所の壕に身を隠し、夜は暗闇に紛れて移動した。

 北谷村(当時)の壕に身を寄せた時だった。朝方、村落の代表らしき年配の男性が「15歳以上の者は竹やりを持って集まりなさい」と壕の中で呼び掛けた。「軍事教練でもするのだろう」。16歳だった山田さんはそう推察し、恐る恐る壕の外に出て木陰から様子をうかがった。すると、無数の米艦船が読谷の海岸を埋め尽くしているのが目に入った。あまりの威容にあっけにとられていると、艦船から赤い火柱が立つのが見えた。1、2、3―。

 数え終えた瞬間、ドーンと大きな地響きを感じた。「こんな相手と戦っているのか」。絶望感に襲われながら振り返ると、勇ましい呼び掛けをしていた男性が慌てて壕に逃げ込む姿が目に入った。「戦争に負けるかもしれない」。そんな疑念が心の内に生じるのを感じた。

 暗夜行路は続いた。月明かりもない時は同じ道行きの人の気配だけが頼りだった。誰一人声を立てることもなく黙々と歩いた。ある時、行列の近くの上空に米軍の照明弾が上がった。周囲がパッと照らし出されると「あっ」と思わず声が漏れた。「道いっぱいにひしめきあう人の姿が見えた。『こんなにいたのか』と驚いたことを覚えている」

 金武村(当時)の鍾乳洞に身を寄せた時だった。砲撃が収まった夕暮れ時、近くの金武観音寺の境内で休んでいると、20歳前後の若い将校7人が入ってくるのが見えた。海軍の軍服を着た彼らは軍人らしいてきぱきとした所作で整列し、長い時間、祈りをささげた。

 将校らはくるりと向きを変えると、山田さんの方に近づいてきて「自分たちには必要ありません。これをどうぞ」と言った。ポケットから取り出した缶詰には、見たこともないごちそうが入っていた。

 「僕らには必要ありませんから。皆さん、生きのびてください」。申し出を固辞する山田さんらに彼らは重ねて言った。そして缶詰を置いて去って行く後ろ姿を見ながら誰かがつぶやいた。「きっと特攻兵だよ」

 「きっとそのまま海底の藻くずになったのだろう。あの姿を思い出すと今でも自然と涙が出てくる」。山田さんはそう言って、そっと涙を拭った。

(安里洋輔)