原点は「償いの心」 基地負担と引き替えの印象操作に成功 政府の対応、県政で違い 〈沖縄振興を問う~自立への姿~〉②


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沖縄県主催新沖縄県発足式典であいさつする山中貞則総務長官=1972年5月15日、那覇市民会館(県公文書館所蔵)

 「多年にわたる忍耐と苦難の中で生き抜いてこられた沖縄県民の方々の心情に深く思いをいたし、県民への償いの心をもって事に当たるべきと考えます」

 1971年11月6日の参議院本会議で、総務庁長官(当時)の山中貞則氏は沖縄の日本復帰に伴う特別措置法案について趣旨説明に立った。復帰を翌年に控えた同年10月、第67回国会(臨時会)、いわゆる「沖縄国会」が始まり、政府は沖縄返還協定とともに沖縄復帰関連法案を提出。当時、沖縄に対する同情的世論もあり、歴代の首相や長官の多くが沖縄への同情を口にした。とりわけ山中氏はこの国会の中で何度も「償いの心」を強調した。

 特別措置法で国庫補助のかさ上げや財務省への予算一括計上などの沖縄振興制度を作り上げた山中氏。「沖縄の恩人」と呼ばれることもあるが、基地撤去を求める県側の要求は拒否し続けた。

 「沖縄振興開発計画からは『基地の整理縮小』の文言を徹底的に排除した。『沖縄振興開発』が最大の問題だという世論づくりに成功した」。琉球大の島袋純教授は、基地問題から論点をずらし、利益還元政治のシステムに沖縄を組み込む意図が山中氏にあったとみる。

 また「山中氏が予算復活の折衝をする姿が華々しく取り上げられ、沖縄側から要請や陳情を繰り返す図式が日本全国に刷り込まれた。沖縄が感謝し、日本は基地負担を引き受けてもらう代償に沖縄に特別な予算を与えるという印象操作に成功した」と指摘する。

 「沖縄は金だった」

 長年、中央の官僚と折衝を繰り返してきた元副知事の上原良幸氏は「今に続く新たな沖縄振興策の原点となったのは96年の橋本龍太郎首相の談話だ」と振り返る。沖縄振興開発計画は92年から第3次がスタートし、2002年で30年となる。次はもう見直すべきだという声が上がっていた。

 その流れを変えたのが95年に起きた米兵による少女暴行事件だった。基地の整理縮小という沖縄が突き付けてきた命題に、日本政府はかつてない決断を迫られた。

 96年、橋本首相は「私たちの努力が十分なものであったか謙虚に省みるとともに、沖縄の痛みを国民全体で分かち合うことがいかに大切かを痛感している」と談話を発表し、特別の調整費を予算計上するとした。

 県の要望を踏まえ、特別措置を約束した政府。事件を契機に基地問題が動き始め、振興策も拡充された。大田県政は、基地の全面返還を段階的に進めるプランと国際都市形成構想の実現へ向け国との交渉を具体的に始めた。発展の足を引っ張っていた基地問題が動くかに見えた。

 だが、98年の知事選で大田氏は自民党や経済界の推す稲嶺恵一氏に敗れた。内閣府関係者は「『補助金はいらないから基地も全部引き取ってくれ』と言われるのでは、と沖縄関係部局が恐れていたのは大田知事の三選だった。稲嶺さんが当選して杞憂(きゆう)に終わった。やっぱり沖縄は金だったと安堵(あんど)した」と述懐する。

 東京詣で

 全国の沖縄への同情は薄れる一方で、沖縄側の陳情はあらゆる分野で相次ぐ。

 市町村や関係団体は地域の体育館の補修から豚熱ワクチンの接種まで政府に要請を重ね「東京詣で」(政府関係者)とやゆされるほどだ。政府与党関係者さえ「わざわざ東京まで要請に来なくていいだろう。豚熱ワクチンも農水省はすでにやると言っているのに。単なる政治的アピールだ」と冷ややかに見る。

 江上能義琉球大名誉教授(政治学)は「復帰当初は政府は基地と振興を切り離さざるを得なかったが、その建前は実質的に崩れてきている。県としても沖縄振興予算そのものを抜本的に検証した方が良いのではないか。そうしなければアメとムチを認めていると言われても仕方がない」と指摘する。その上で「県側から将来の青写真を描き、予算の裏付けを具体的に示し、県民に問うことも必要ではないか。自治の拡大を織り込む視点も重要だ」と提起した。
 (中村万里子、知念征尚)

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 復帰後50年近くにわたる政府による沖縄振興は、戦後27年間米国に支配されたことや離島の点在、米軍基地の集中など沖縄の特殊な諸事情に鑑み、沖縄振興特別措置法に基づく沖縄振興計画を根拠に実施されてきた。次期振興計画の在り方を巡る国と県の協議は夏ごろから本格化する見通しだ。沖縄振興制度を巡るこれまでの経緯を振り返り、現状や課題を検証する。