道州制で沖縄独自の単独州を提言 民間主導で論議、自治権拡大を狙う 〈沖縄振興を問う~自立への姿~〉⑤


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仲井真弘多知事(右)=当時=に最終提言を手渡す沖縄道州制懇話会の仲地博座長ら=2009年9月24日、県庁

 2009年9月24日、県庁の知事応接室は「何かが変わる」という高揚感に包まれていた。経済団体や大学教授、与野党県議らで構成する沖縄道州制懇話会は仲井真弘多知事=当時=に、沖縄の自治権拡大を可能とする「特例型単独州」を目指すべきだとする最終提言書を手渡した。06年に発足した第一次安倍政権下、地方分権を推進する一つの手段として「道州制」の議論が活発になっていた。道州制は、現在の都道府県を廃し、新たに10程度の道や州に再編して国の仕事や財源を大幅に移管し、住民に身近な市町村の機能も強化する構想だ。

 危機意識

 「最後まで逃げないこと」。07年8月、仲地博沖縄大学前学長は道州制懇話会の座長を引き受けるに当たって、依頼主の太田守明氏(当時・沖縄経済同友会副代表幹事)に一つの条件を提示した。当時、全国各地で道州制の研究が進められたが、民間主導の団体は前例がなかった。保革の対立を乗り越え、幅広い分野のメンバーがそろった懇話会では「結論が出ない」と思い、二の足を踏んだ。懇話会の形骸化を懸念し、太田氏に「覚悟」を求めた。

 懇話会は経済界や学者、労働団体など「オール沖縄」とも言えるメンバーが集結し、「沖縄単独州」ありきではなく、ゼロから議論を始めた。ただ、参加者の共通認識として議論が遅れることにより沖縄の運命が他者に決められ、新たな「琉球処分」になるのではないかという危機意識と、沖縄からの積極的な意思表示の必要性を持っていた。

 “平成の琉球処分”に対する危機感から始まった懇話会は08年1月、沖縄単独州を目指すことを全会一致で決定。政府の道州制ビジョン懇談会の関連組織である道州制協議会のメンバーでもあった太田氏は「懇談会の座長は当初、沖縄を九州州に入れるべきとの認識を示していた。沖縄が九州州に取り込まれると基地問題など沖縄が抱える問題が埋没し解決できないと思った」と振り返る。

 他地域とは一線

 約2年間で24回の会合を開き、最終提言をまとめた懇話会が求めた“特例型”単独州は他の地方とは一線を画した。他の道州よりも高い次元の自治権拡大と在沖米軍に対する課税権など独自の仕組みを持つ「特例」を認める一方、他の道州と同程度に財源を移譲し保障を求める。歴史的背景、地理的特性から全国に先駆けた先行モデルとして沖縄州を設立させ、特例として、沿岸・国境警備や漁業資源の管理・利用、海底資源探査や利用などの権限・財源の移譲を求めた。

 だが、最終提言が出される直前の09年8月末、国内の政治状況が一変した。民主党による政権交代だ。民主党は選挙公約で掲げた「地域主権改革」の一環として「ひも付き補助金」を廃止し、自由に使える「一括交付金」を創設した。道州制が実現することはなかった。

 その後、12年12月に政権を奪還した安倍政権は中央主導による「地方創生」を掲げたが、道州制の議論が進んでいるとは言い難く、県内の議論も沈静化している状況が続く。

 「懇話会が2年間で蓄積したものは沖縄の貴重な財産であり、決して無駄にはならない」。懇話会の最終提言から11年が経過し、懇話会の中核を担った仲地氏と太田氏は口をそろえる。仲地氏は「懇話会の存在そのものが、沖縄の自治の力を示したとも言える」と強調した。
 (吉田健一)

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 復帰後50年近くにわたる政府による沖縄振興は、戦後27年間米国に支配されたことや離島の点在、米軍基地の集中など沖縄の特殊な諸事情に鑑み、沖縄振興特別措置法に基づく沖縄振興計画を根拠に実施されてきた。次期振興計画の在り方を巡る国と県の協議は夏ごろから本格化する見通しだ。沖縄振興制度を巡るこれまでの経緯を振り返り、現状や課題を検証する。