学徒隊として沖縄戦に動員された少年は沖縄の象徴が崩れ落ちる様子を目の当たりにし、心が揺さぶられた。
本部町の仲田善明さん(91)は沖縄師範学校男子部でつくる鉄血勤皇師範隊の一員として戦場に駆り出され、軍の中枢にも身を置いた。憧れていた将校らから戦争の話を聞くこともあり、日本の勝利を疑うことはなかった。
1928年12月、本部村の瀬底島で生まれた。瀬底国民学校の高等科を卒業し、43年に沖縄師範学校に入学。首里市での生活が始まった。島で生まれた仲田さんにとって首里は大都会。地元ではかやぶきの家屋がほとんどだったが、首里の屋敷はきれいに石垣が積まれ、屋根は瓦ぶきの家屋が並んでいた。ほとんど塗装されていない民家が多い中、赤瓦の屋根に朱色の壁の首里城はあでやかさが一層際立っていた。
学校では教師になるため必死に勉強した。学費は免除され、官費で毎月20円が支給されたため下宿費用などに充てた。予科2年に上がった44年の中頃からは勤労動員で駆り出され、那覇飛行場や読谷、嘉手納飛行場などの構築に従事した。仲田さんは作業現場にも本を持って行った。「まともに勉強できなくなったが、みんな向学心があった」と振り返る。
45年3月23日、米軍が南西諸島全域を空襲した。翌24日には本島南部を艦砲射撃が襲う。米軍上陸が目前に迫っていた。
同31日夕、師範学校の生徒が掘った首里城正殿の東にある留魂壕(りゅうこんごう)の前に全校生徒が集められた。仲田さんも群衆の中にいた。「第32軍司令官の命により、本日より全員、鉄血勤皇師範隊として軍に徴せられた」。32軍の将校がこう発し、仲田さんは「郷土の防衛に当たる」と身を引き締めた。
仲田さんは野戦築城隊第三中隊に配属された。首里城地下の32軍司令部壕の陣地掘りに従事した。壕の中は狭く、つるはしで掘り進める兵士と土を外に運び出す師範隊らが密集、人間の体から発せられる熱や湿気が立ち込め、息も詰まりそうな空間だった。
4月に入ると、米軍の空襲、艦砲射撃はますます激しくなった。特に沖縄での日本軍の中枢だった司令部を狙い、首里城一帯は苛烈な攻撃にさらされ、城郭の石垣は崩れ、建造物も破壊されていった。
仲田さんが非番で留魂壕にいたある日。「首里城が燃えている」という声が聞こえた。壕を飛び出すと、首里城が真っ赤な炎に包まれていた。その時、既に米軍の攻撃はやんでいて、みな集まって崩れ落ちる首里城を見上げていた。「言葉にならなかった」。仲田さんは立ち尽くすしかなかった。 (仲村良太)