親友は血まみれになって息絶え…惨劇の記憶、語り残す 「戦争は僕らでたくさん」<奪われた日・再生への願い―戦後75年県民の足跡㉜仲田善明さん㊦>


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 沖縄師範学校男子部でつくる鉄血勤皇師範隊の野戦築城隊の一員だった仲田善明さん(91)=本部町=は1945年5月下旬、首里を離れ南部に撤退を始めた日本軍第32軍司令部に帯同していた。米軍との激しい戦闘で多くの友を亡くした。「75年、短かった。今も昨日のように覚えている」。戦争で奪われた人々の記憶を胸に刻む。

 撤退の日、三八式歩兵銃と小銃弾を与えられ留魂壕(りゅうこんごう)を飛び出した仲田さんらを米軍の銃撃が襲った。崩れた石垣や倒木で弾を避けながら金城町の壕へ向かうと、日が落ちるのを待って首里を出た。

 米軍に包囲され、現在の那覇市識名から南風原町津嘉山に向かう道しかなかった。「袋のネズミだった。海も隙間がないくらい軍艦でいっぱい」。野戦築城隊は2日かけて糸満の摩文仁にたどり着いた。

 32軍司令部の移動が知られると、摩文仁も猛攻を受けることになる。

 6月7日だった。米軍の偵察機が飛来し岩陰に隠れた時、砲弾が頭上の岩にぶつかり爆発した。破片が右脇に突き刺さった。その時、隣にいた友人の知念悟吉さんが「やられた。やられた」と声を振り絞った。破片が腹部にささり、血まみれになって息絶えた。

 知念さんは仲田さんと同じ本部町出身で師範学校本科一年、野戦築城隊第二中隊に所属し「生死を共にする」と誓い合った仲だった。負傷した仲田さんが司令部で治療を受けていた間、師範隊の仲間が知念さんの遺体を近くに埋めた。戦闘はさらに激しくなり多くの仲間が犠牲になった。

瀬底小学校の創立120周年記念で瀬底の歴史を語る仲田善明さん=2010年2月、本部町の瀬底小学校

 6月19日、追い詰められた32軍司令部は鉄血勤皇隊の解散を命じた。師範隊の隊員や兵士、住民らが何百人と海岸線を具志頭方面に逃げ「半分は海に漬かって歩いた」。米軍の「敗残兵狩り」にも遭った。銃撃をよけて伏せていると手投げ弾が飛んできた。「ドーン」。爆発音と同時に右足に衝撃を受けた。攻撃を抜けると痛みと疲労が湧き上がり、睡魔に襲われた。

 記憶にある次の瞬間は翌朝。米兵に囲まれ捕虜となった。沖縄戦の組織的な戦闘は終結した。瀬底に戻れたのは45年末、母や生まれたばかりの弟は亡くなっていた。

 戦後は小学校教諭となり、母校で校長も務めた。子どもたちに地元の歴史や戦争体験を話すこともあった。思い出したくない記憶もあるが、75年前にこの沖縄で起きた悲劇を繰り返さないためにも記憶を呼び覚ます。「亡くなった人の遺志を酌み取ってほしい。戦争は僕らでたくさんだ」

(仲村良太)
(おわり)