社会

志村けん「変なおじさん」と沖縄戦 傷を引き受け生き抜いた人たち【WEB限定】

志村けんさん=2006年、群馬県

 「このおじさん、変なんです」「そうです、私が変なおじさんです」―。新型コロナウイルス感染による肺炎で死去した志村けんさんが生み出したキャラの一つ、「変なおじさん」。有名なこのコントのオチで使われていた歌「変なおじさん、だから変なおじさん♪」は沖縄のミュージシャン・喜納昌吉さんの代表曲「ハイサイおじさん」が原曲だ。明るく踊り出したくなるようなメロディーで高校野球では沖縄代表の応援歌としてアルプススタンドでも響くこの歌を掘り下げると、過酷な沖縄戦、戦後を生き抜いた沖縄の悲しさ、強さが刻まれていた。(玉城江梨子)

 「ハイサイおじさん」は喜納さんが中学生の時に作り、1969年、21歳の時に、沖縄民謡の大家だった父親、喜納昌永さんのレコードに収録したもの。「ハイサイ」とは沖縄の言葉で「こんにちは」。歌詞の内容は、酔っ払いのおじさんと少年の会話で、「おじさんのはげは大きいね」「おじさんのひげは滑稽だね」などコミカルな掛け合いが続く。


観客もステージに上がり踊る中、「ハイサイおじさん」を歌う喜納昌吉さん=2016年、宜野湾海浜公園野外劇場

 実はこの「おじさん」には実在のモデルがいる。喜納さんが子どもの頃に家の隣に住んでいたアルコール依存の「おじさん」だ。喜納さんの著書「反戦平和の手帖ーあなたしかできない新しいこと」(集英社新書)によると、おじさんと喜納さんの出会いは1950年代の初め。喜納さんが4、5歳の頃だった。おじさんは初めのころはまともだったが、酒の量が日に日に増え、正気でなくなっていったという。その理由を喜納さんは「戦争は終わって復興は進むのですが、やっぱり戦前の沖縄には戻れないんです。多くの住民は共同体を失い、生活はアメリカ化するし、ヤマトの文化も入ってくる。心の穴を埋められないうちに環境が激変してしまったものだから、おじさんみたいな不器用な人はついていけなかったのだろうと思います」と説明している。

 

生活の場が戦場になった


海岸に上陸する海兵隊員(沖縄県公文書館提供)

 アジア・太平洋戦争末期の沖縄戦。1945年3月26日に慶良間諸島に上陸した米軍は、6日後の4月1日には沖縄本島に上陸。約3カ月にわたり、住民を巻き込んだ地上戦が行われた。当時の県民の4人に1人にあたる約12万人が犠牲になり、家や財産、自然、文化遺産も灰燼に帰した。戦場を生きのびた住民たちは米軍の収容所に集められ、一定期間を過ごした後、それぞれの故郷に戻っていくが、それは戦争前の故郷とは変わり果てていた。すべてが焼き尽くされていたり、米軍によって基地が建設された場所もあった。戦前ののどかな沖縄はなくなっていた。


米軍の慶良間上陸作戦=1945年3月27日(沖縄県公文書館提供)

「ハイサイおじさん」のモデルになった「おじさん」は戦前、那覇の遊郭へ人を運ぶ馬車引きをしていたが、戦争で遊郭も馬車引きの仕事もなくなった。最初はまともだったおじさんの家庭だが、次第に壊れていく。当時、戦争で家を失った人たちが路上で生活していた。おじさんは路上生活をする女性に同情し、妻や子どもがいるのに、女性を家につれてきてしまう。おじさん一家はもめ事が多くなり、1962年、事件が起こる。

 精神を病んでいたおじさんの妻が自分の子どもを殺害するという事件だった。
喜納さんは事件について「沖縄戦で生き残った人たちが、さらに自分たちの内に残っている戦争の狂気を改めて認識したのではないのかと感じました。実際、戦中、死ぬ恐怖、孤独になる恐怖に曝され、いっそのこと死んだ方がましだ、と思っていた人がいっぱいいたわけです。(中略)破滅を目の当たりにする恐怖に耐えきれない気持ちが恐怖となり、戦争が終わっても残ってしまっていることに、多くの人が気づいたのではないか」と述べている。

癒やされない沖縄戦の傷


ブルドーザーで土地を敷ならし、普天間飛行場を建設する様子。後方に松並木が見える=1945年6月(沖縄県公文書館提供)

 沖縄戦は人々の生活の場が戦場になった。家族や友人、自分の大切な人が目の前で殺されたり、重傷を負った家族を置いていかなければならなかったりした。自分の大切な人がどこでどのように死んだかさえ分からない、遺骨もまだ見つかっていないというケースも少なくない。

平時でも自分の近しい人の死はつらい。だが葬儀や法事などさまざまなプロセスを経て、人は大切な人の死を受け入れ、悲嘆は癒やされていく。一方で戦場での死は悲嘆がケアされることなく、喪失が癒やされないままのケースもある。

さらに戦後の沖縄はアメリカに軍事占領された。この時期、米軍の前に沖縄県民の人権はないに等しかった。基地建設のための土地の強制接収、女性に対する性暴力、頻発する米軍の事故、事故。戦争体験者の多くが「生きていくのに必死だった」という時代。残酷な死に接した傷は癒やされないどころか、さらに傷口は広げられていった。


コザ騒動で群衆に襲われ炎上する米車両=1970年12月20日

 話を「おじさん」に戻そう。
ただでさえ、酒飲みで疎まれていたおじさんはその事件後、村八分のような状態となり、子どもたちまでおじさんを追いかけて石を投げたりしてからかうようになったという。しかし、おじさんは石を投げられてもあれだけつらいことがあっても喜納さんの家にお酒をせがみに来て、酒を飲み笑い続けていた。

 おじさんのことを喜納さんは「不器用で、世間にうまくなじめなくて、立ち直れない部分は誰にでもある。(中略)誰もがなかったことにしたい地獄を、おじさんが1人で背負っている。1人で傷を引き受けている」と表現。その上で「おじさんは非常に生命力のある人だった」とし、どんな状況でも生きていかなければならなかった「おじさん」への愛情を歌にしたのが「ハイサイおじさん」だった。



 この「おじさん」に見られる生命力は、彼だけに特異なものではない。
精神科医、保健師、心理士、ジャーナリストなどで作る「沖縄戦・精神保健研究会」が、沖縄戦体験者を対象に2012年に実施した調査では、PTSD(心的外傷後ストレス障害)が疑われるほどの重いトラウマを抱えた人が4割に上った。調査はデイサービスに通っている高齢者を対象に行われた。デイサービスに通えるほど元気で明るい高齢者も戦争の傷を背負ったまま、戦後長い時間を過ごしてきているのである。



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