【読谷】沖縄戦で住民80人以上が「集団自決」(強制集団死)に追い込まれたチビチリガマ=読谷村波平=の惨劇から2日で75年。戦後、生存者や遺族は長きにわたり口を閉ざしたが、1983年、ノンフィクション作家の下嶋哲朗さん(79)=東京都=らの調査をきっかけに明らかになった。慰霊祭は新型コロナウイルス拡大防止のため遺族会と関係者のみで4日に実施する予定の中、下嶋さんはチビチリガマの惨劇について「いのちの尊さを伝える教訓だ」と継承を願う。
暗闇の中を奥に進んでいくと、足元でポリ、ポリと響く音。1983年8月、調査で初めてガマに入った下嶋さんには忘れられない。「遺骨が散乱していた」。終戦から38年がたっていたが、まるで時間が止まっていたかのように感じた。
75年に石垣島で読谷村出身の女性と出会い、チビチリガマの出来事と当時タブー視されていたことを知った。「史実を記録することで犠牲者の尊厳を守り、平和の尊さを次世代に継承すべきではないか」
遺族や地域住民からの反発を覚悟した。後の遺族会初代会長となる比嘉平信さんの協力を得て、住民の聞き取りに乗り出した。
下嶋さんは調査を進め、愛する家族を手に掛け、自ら命を絶つことに追い込まれた住民の状況に「徹底した皇民化教育や『鬼畜米英』に対するあおり立てがあった」と実感した。「集団自決は誤った教育が引き起こした悲劇だ」とも指摘した。
証言者が減る中、不戦の誓いを後世にどう伝えていくのか。「(戦跡は)歴史の教科書。ありのままに触れ、史実を知り、平和の尊さに目覚めてほしい」と強調した。
母方の祖父母ら5人を亡くした遺族会の與那覇徳雄会長(65)=村渡慶次=は「肉親同士が命を奪い合った。世間に知れ渡ることをためらった遺族は多かった」と振り返った。83年の調査の後、チビチリガマには平和学習などで多くの人が訪れ、“いのちを考える場所”になった。與那覇会長は「一人でも多くの人が訪れ、平和と生きる意味を考えてほしい」と願った。
(当銘千絵)