名護市の照屋礼子さん(82)から沖縄本島に米軍が上陸した75年前の体験談が寄せられました。照屋さんは本部町の山中に避難していました。
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照屋さんは1938年1月、大阪府西成区で生まれました。本部町備瀬出身の父進さんは大阪市電気局(後の大阪市交通局)で市電乗務員として働いていました。家族は母松枝さん、2歳上の姉幸子さん、3歳下の妹カヨ子さんがいました。
西成区は大正区と並んで多くの沖縄県出身者が暮らした地でで、生活は貧しかったといいます。この街で暮らした幼い頃の思い出があります。
「大宜見小太郎さんら沖縄の芝居が大阪に来ることがありました。私たちの周辺には朝鮮の人々も住んでいて、地域の行事に参加していました。話したり遊んだりすることはありませんでした」
進さんは大阪府警察部に転職した後、44年に沖縄に引き揚げます。進さんが自らの歩みをつづった資料には「昭和19年1月、太平洋戦争状況不利のため、家族引き揚げ、帰郷」とあります。警察に勤めていて戦況の悪化をうすうす感じていたのかもしれません。
沖縄に引き揚げた家族は進さんの出身地の備瀬に戻ったわけではありません。米軍の最初の上陸地、座間味に渡ります。
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1945年4月1日、米軍が沖縄本島の中部西海岸に上陸しました。その時、沖縄住民は何を見て、どう行動したのでしょうか。体験談を紹介します。