座間味で10・10空襲体験「教室飛び出し泣き叫び」 照屋礼子さん 米軍上陸(2)<読者と刻む沖縄戦>


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現在の座間味小中学校=座間味村座間味

 大阪から引き揚げた照屋礼子さん(82)=名護市=の家族は1944年2月、座間味村に渡ります。父の進さんは屋嘉比島にある鉱業所の事務所で働き、礼子さんと姉の幸子さんは座間味国民学校に通いました。礼子さんは座間味島で「10・10空襲」を体験しました。

 《勉強中、上空から恐ろしい音がゴーゴーと鳴り、アメリカの爆撃の音で学校中が大騒ぎになった。全校生徒が急いで教室を飛び出し、運動場に出て「お父さん、お母さん」と皆、泣き叫ぶ声がした。それぞれの家族が迎えに来ていた。

 空襲の恐ろしさを知り、爆弾の音が鳴り響くなか、私たちはやっと父母に会い、抱きしめられ、まもなく裏山に逃げ込んだのを覚えている。》

 「座間味村史」によると船が爆撃され、死傷者が出ています。両親は危機感を抱き、座間味を離れることにしました。

 《父母は「もうここにはおれない」と、沖縄へ引き揚げることを決心しました。戦争のさなか、家族は勇気を出して船に乗りました。航海中、敵の魚雷に遭い、船内は騒がしくなりましたが、うまくすり抜けて命からがら沖縄本島にたどり着くことができました。本当に奇跡でした。》

 その後、礼子さんは父母の故郷、本部町備瀬で暮らすようになります。米軍上陸を前にした45年2月のことです。